〜徐州の戦い〜

第1話「徐州侵攻」

 


 青洲黄巾兵を配下とした曹操の飛躍はすさまじく、さらに数々の遠征を繰り返すことで、瞬く間にその勢力を拡大していった。
 曹操はかねてから考えていたように、父・曹嵩(字は巨高)をはじめ自らの一族をエン州へと呼び寄せることにした。
 曹操飛躍の第一歩を支えてくれたのは他でもない曹嵩だった。
 どんなときでも曹操こそいつかは大きくなる人物と信じ、盲目的なまでに曹操を愛した父親であった。
 曹嵩は立派になった息子の誘いに喜んで準備をし、早速エン州へと向けて馬車を走らせた。
 温厚篤実な人物として有名な徐州牧・陶謙は、親への孝心を示す曹操の話に心うたれ、徐州を通りかかった曹嵩たちを無事エン州まで導けるよう、500ほどの護衛兵を同行させた。
 しかし……
 曹嵩一族の私財に目が眩んだ徐州兵は、陶謙の命に背いて曹一族を皆殺しにし、私財を奪って行方をくらましてしまった。

―・―・―

 その知らせがエン州の曹操のところに届くまで、そう時間はかからなかった。
「そうか……残念だ」
 知らせを聞いた曹操の反応はさっぱりしたものだった。
 怒りをあらわにするわけでもなければ、涙を流して泣き崩れる事も無い。
 ただ「わかった」と言ったきり黙りこんでしまった。

 曹操は思う……
 昔から自分は決して良い行いをする子供ではなかった。
 しかし父・曹嵩はどんなときでも曹操の味方になってくれた。
 天下へ踏み出すといった曹操に何も言わず私財をなげうって兵や武装を用意してくれたのはいつの話だっただろうか……
 今回ここへ曹嵩を呼んだのも、今までの恩に少しでも報いようとしたのだが、結果は彼を死に導くという親不孝をしてしまったことになる。
 最後まで何も出来ぬままに終わったということがただ無念だった、本来なら涙を流すべきだろう、それが孝心というものだ。
 しかし、曹操の瞳が涙に濡れることはなかった。

「全く、やりきれない世の中になってしまったね」
 曹操は隣に控える自らの新たな謀臣・程イク(字は仲徳)に語りかけた。
 身体は多少老い、髪や髭にも白いものが混じっているが、それでいて眼光は衰えるどころか更なる鋭さを増した程イクは、曹操の言葉に静かにうなずいた。
「はい、これが乱世でございます」
二人の会話を、荀イクをはじめとした配下たちは静かに聞いていた。
しかし、しばらくの沈黙の後、曹操が小さく呟いた。

「徐州の陶謙を攻めよう……」
 その言葉に、場の全てのものが息を呑んだ。
「殿……その侵攻に理由はありますか?」
 荀イクが静かに聴いた。
「前から陶謙は邪魔だと思っていたのだがね……これで理由が出来た」
 そう答えた曹操に、荀イクは眉をしかめる。
「お父上を失われた殿の胸中をお察しすることなど私には出来ません……ですが、この度のご一族の不幸の責任を陶謙に押し付けるのはどうでしょうか? 責任がないとは言い切れませんが、その全てが陶謙にあるとは言えません。 もしここで軍を動かせば『復讐のために軍を動かした』と誰もが思い、人心が離れてしまうのでは無いでしょうか?」
「しかし!! 一族の無念を晴らすのもまた正しき道!! 今こそ徐州へ侵攻し!! 天下の民に曹操殿の正義を知らしめるべきだ!!!」
 曹操配下の武将・曹仁が言った。
「荀イク……もう決めたことだよ」
 曹操が再び言った。
 それを聞いた荀イクは静かに目を閉じ
「あなた様がそれを望むのでしたら……」
 そういったきり何も言わなくなった。
「直ちに出陣の用意をしたまえ……このたびの戦では青洲兵を使おう」
 曹操がそういったときだ。
「待て!! 孟徳!!!」
 広間の扉を開け、一人の武将が中へと入ってきた。
「と、惇兄さん」
 夏侯淵が声を上げた。
 そう、扉を開き堂々と歩を進めるその姿は、曹操軍の猛将・夏侯惇のものだった。
「惇、長きに渡る遠征ご苦労だったね」
「ああ、本当なら土産話でもしたかったんだが……そうも行かないようだな」
 夏侯惇は歩みを止めることなく、曹操の問いに答える。
 そして、ただ一言を呟いた。
「やめろ、孟徳」
「何をかね?」
「とぼけるな!!!!」
 夏侯惇は声を荒げる。
「このような侵攻があるか!!! しかも青洲兵を使うだと?! ふざけるな!!! あのものたちは未だに殺戮や略奪しか知らぬものたちばかりなのだぞ!!!! 今回の侵攻でそんな者たちを使えば貴様の名は地に堕ちるぞ!!! 貴様が目指すのは『天』ではなかったのか?!」
 夏侯惇の視線をまっすぐに受け止め、それでも曹操はひるまない。
「私は曹操孟徳……それ以外の何者でもない」
「何?」
 曹操は立ち上がり、声を上げる。
「私は私の目指す『天』を見ながら己の『展』をもって進む!! どんなことがあろうとも私はその『天』を見失わず進んで見せる。 ならばその過程でどのような悪名を負おうとも、私は迷わずそれを背負って見せよう!!!」
 曹操の言葉に、全てのものが言葉を失う。
「私怨も復讐も関係なく……ただ陶謙を攻めるというのか?」
 夏侯惇が静かに聴いた。
「無論」
 曹操は迷わず答えた。
「それが天下の民の人心を離し、天意に背くことになってもか?」
「私が貫くのは自らの『天』だ」
「ならば何故、青洲兵を使う?」
「彼らは私と戦うことを望んでいる、だから私も彼らとともに戦うだけだ」
「そうか……」
 それを聞いた夏侯惇は、曹操に背を向け静かに呟いた。
「エン州の留守は任せろ」
 曹操はしばらく黙っていたが、やがてにこりと笑って隣に控えていた荀イクに言った。
「荀イク……程イク、夏侯惇とともにエン州の守備は任せたよ」
 荀イクは静かにうなずいた。
「分かりました……まだ曹操殿の全てを読みきれなかった私の愚をお許しください」
 荀イクの言葉に、曹操はさわやかに答えた。
「それもまた仕方がない、私は果てしなく偉大だからね」
 それを聞いた荀イクは苦笑するしかなかった。
 そして、曹操は自らの軍に号令をかけた。
「出陣する!!!!!」
「応ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!!!」

 そうして全てのものが曹操の言葉にそれぞれの思いを抱き、動こうとする中
「……」
 魂を抜かれたように立ち尽くす一人の男。
 まだ若いが、曹操の謀臣の中でもかなりの古株の男・陳宮だった。
「わからない……」
 陳宮は静かに呟いた。
「自らの『天』を貫くためなら天意に背く事も、悪名を背負うこともかまわないだと?」
 曹操の考えは、陳宮にとってとても理解できるようなものではなかった。
「悪名を背負ってなお自らの道を貫き、天下の覇者になるというのか」
 理解が出来ない……手に負えない。
 陳宮の頭を駆け巡るのはそんなことばかりだ。
 常に結果を重んじる彼は“理解が出来ない”ということに言いようのない恐怖を覚えていた。
 昔、この男こそ正しき覇者と思い、曹操の命を助けたことがある。
 しかし……
「本当に正しかったのか? 本当に……私は」
 今となっては、このような恐ろしい考え方をする男を生かしてしまったということがとんでもない間違いだったような気がしてならなかった。
「私は……このような男には、付いて……いけない」
 陳宮の中で、曹操に対する恐れが、黒い何かになって生まれてきていた。

―・―・―

 夢を見ている……ということだけはわかった。
 これはいつのことだろうか……
「およめ……さんって……なに?」
 呂華が可愛らしく首をかしげる。
「くす、愛する人と生涯を誓い、きれいな衣装をまとって皆に祝福される、幸せな女性のことです」
 董白は呂華の問いに、そう答えた。
「ヒャハハハハハハハッ!!!」
「む、そこの無礼者……なんですか?」
 大声で笑い転げているのは護衛ということでつれてきた華雄。
「ヒヒヒヒ、だってそうだろ? まさかまさか泣く子も黙る董白お嬢様の口からそんな夢に溢れた単語が飛び出すとは思わなかったからなぁ!! ヒャァッハハハハハハハ!!!!!」
 遠慮という言葉を一切抜きで笑い続ける華雄に、周りの部下は報復を恐れてオロオロとあわてている。
「ですが華雄殿、董白様の言うことは本当ではありませんか?」
 見るに見かねたのか、厳氏が助け舟を出してきた。
「あぁ、まぁまちがってはねぇよなぁ」
 華雄はニヤニヤと嫌味な笑みを浮かべている、明らかに董白を馬鹿にしていた。
「くっ……」
「およめ……さん?」
「?!」
 しかし今は呂華の前、董白は必死に怒りを抑え、華雄を無視することにした。
「はい、いつか私たちも……愛するものを見つけて……」
「なら、私……白の“およめさん”になる」
 董白は思う、あの時私は、一体どんな反応をしただろうかと。
 確か
「はへ?」
 なんて何とも間抜けな声を出したはず。
「私……白大好き、だから白の“およめさん”……なる」
 呂華はそう言って董白に抱きついた。
「えぇぇ?」
 戸惑う董白を見ながら、華雄は
「ギャハハハハハハ!!!!! 良かったなお嬢よぉ!!!」
 なんてこれでもかってくらいに大笑いしていたはず。
 しかし
「白〜」
 呂華の瞳は本気だった。
 そのときの董白は何を考えたのか
『あぁ……呂華を私の“お嫁さん”にするのは願ってもいないことですが……そうなっては私が“お嫁さん”になれないような』
 などと考えていたはず……
 しかし呂華は
「で……白が私の“およめさん”♪」
 なんていったはず。
「……」
 有り体に言って顔から火が出るほど恥ずかしかったが、その純粋な言葉に董白は笑顔で言った。
「ええ、約束ですよ」
 と……。

 帰って祖父たちにそのことを言ったら何と言ったか。
 李儒は困ったようにため息をつき、董卓も『下らん』と吐き捨てるのみだった。
しかし今になって気がつく。
 祖父である董卓は「下らない」といっただけで「許さない」とは一切言わなかった。
 何で今になってこんなことを思い出したのか?
 何で今になって……こんなにも満たされた日々の夢を見せるのか……。
 そんなことを少しばかり思いながら、董白の意識は覚醒していった。

―・―・―

ガタ……ガタン

 馬車のゆれが伝わってくる。
「う……ん」
 小さな吐息を感じて、董白はゆっくりと目を開ける。

すぅー、すぅー

 目の前で眠るのは、夢に出てきた、誰よりも愛しい少女。
ゆるく波がかった栗色の髪も、今は閉じられた紅の瞳も、見ているだけで自然と笑みがもれる。
 呂華を起こさないように身体を起こそうとして、呂華が自分の身体に抱きついていることに気がつく。
「あらら……」
 仕方なく、董白は再び横になる。
「目覚められましたか」
 馬車の隅に座っていた厳氏が声をかけてきた。
「はい」
 呂華の姿を眺めていた自分を見られていたことに気がつき、董白は気まずそうに答えた。
「申し訳ありません、本当なら母親の私が」
「なんの、その方のそのお顔を見れば、そんな心配は杞憂とわかりましょう、奥方」
 厳氏の言葉を、馬車の外で馬を駆っている高順が遮った。
 戦場では“無敗の陥陣営”を操る豪将だが、普段はどこか穏やかで親しみやすいというのが、この高順という男の特徴だった。
「それは……まぁ、そうですが」
 厳氏は困った顔をしながらも、並んで横になっている董白と呂華を微笑ましげに見守っている。
「お前もそう思うだろう? 張遼」
 高順が隣に並んでいる張遼に声をかける。
「拙者からは何とも」
 しかし張遼は短くそう答えただけだった。
 普段は極力無駄なことを話さない、それがこの張遼という男の特徴だった。
 高順と張遼、性格は正反対の二人だが、こと“忠義心”に関しては二人とも絶対のものを持っていた。
 なので、董白はこのたび自身に不安は一切持っていなかった。
 実際、大勢の山賊だろうが野盗だろうが、この二人が率いる少数の兵たちに手も足も出なかった。

 だから、董白が不安があるとしたら……
「もうすぐ……なのですか?」
 董白に声をかけられ、高順は真面目な顔でうなずく。
「はい、呂布殿は長安を脱出された後、袁術、袁紹の場を転々とし、今は旧知の張楊のところに身を置かれていると聞きました」
 ……ついに祖父の仇である呂布と合間見えることになるということ。

 今は董白も落ち着いている、隣には呂華がいる。
『だから……大丈夫』
 もう何度そうやって、自分に言い聞かせてきただろうか。
 しかし……
「……」
 董白は自らの懐に手をやる。
 そこにあるのは、いつか賈クに渡された短刀。
 董白は今もそれを手放せずにいる。
「私は……」
 それがたまらなく不安だったが、馬車は止まることなく進んでいった。

―・―・―

 曹操の徐州侵攻はすさまじいものだった。
 青洲兵を率いて恐ろしい勢いで進み、止めようとする陶謙軍も、逃げようとする民百姓も、全てが皆殺しにされた。

斉――――――

「ざけんじゃねぇ!! 民百姓まで殺してるだと?!」
 劉備たちとともに斉に駐屯していた張飛は、陶謙から曹操の徐州進行の話を聞いて怒りをあらわにした。
「……」
 関羽は深刻な面持ちで黙って話を聞いている。
「はい!! 曹操軍は最近軍に加えた獰猛な賊兵・青洲兵を筆頭にすさまじい勢いで侵攻してきます、私たちでは抑えきれません!! どうか加勢を」
 陶謙の使者は必死だった。
「劉備殿!! 行くしかありませんぞ!!」
 劉備とともに駐屯をしていた田楷は、先ほどから口を閉ざしている劉備にむかって声を上げた。
「……」
 劉備はやはり黙っている。
 彼には珍しく、その表情から何の感情も読み取ることが出来ないでいた。
「どうしました? まさか怖いのですか?」
 今度は劉備の後ろで腕を組んでいた趙雲が、劉備へと声をかけた。
「あなたが行かないのなら俺が行きます、曹操の行いは俺の許容できるものではない」
 静かに槍を携えてはいるが、趙雲の瞳には負の炎が揺らめいている。
「待て子龍、伯佳サンから借りたあんたにそんなことさせるわけねーだろ」
 劉備がやっと口を開いた。
「勘違いしないでいただきたい、俺はあなたの手助けをするんじゃないです、曹操が気に入らないのです……それと、もうそろそろ俺の名前は呼ばないでいただきたい」
 前髪を掻き揚げながら、趙雲は涼しげに言った。
「悪かったな常龍児、でだ……今回は俺に任してあんたは伯佳サンとこに戻ってろ」
 それを聞いた趙雲は涼しげな表情を崩すことなく答えた。
「この場は『分かりました』と言っておきましょう……イマイチ信用は出来ませんが、公孫サン殿からあなたの言うことには出来る限り従うように言われています。あなたがそう言うのでしたらお任せしましょう……はぁ、これでやっとあなたの元を離れることが出来る」
「ははっ、相変わらず遠慮がねぇ。まぁ、伯佳サンによろしく頼んだぜ」
「えぇ」
趙雲は短く答えたきり、その場から立ち去っていった。

「雲長、益徳、それに田楷サン……相手はあの曹操サンだ、いけるか?」
 劉備の問いに、関羽がうなずいた。
「やるしかないのです、ならばやって見せましょう」
 張飛も同じようにうなずく。
「虎牢関じゃあ散々あいつらに振り回されたからな、ちょっとばかり頭にきてんだ、戦えるんならやるだけだ」
「よし劉備殿、早速陶謙殿の加勢に行きましょう」
 田楷に言われ、劉備もゆっくりうなずいた。
「おっしゃ!! 行くぜ!!」
 そういったものの、劉備はどこか不安だった。
『自らの天のためにすべてをなげうってたたかえるあの人に……俺がぶつかって潰されないか……』
 しかし、この乱世で同じものを目指している以上、いずれは争わなければならないのだ。
「あっはっは!! 迷っても仕方がねぇ!! やってやるぜ!!!」
 冷や汗をかきながらも、劉備の顔はどこか楽しげだった。

―・―・―

 早かったのか遅かったのか、高順・張遼が引く輿はついに呂布が身を置く上党の太守・張楊の元にたどり着いた。
「おぉ、高順殿に張遼殿、呂布どののもとでのご活躍は聞き及んでおります」
 張楊は高順たちを歓迎した。
「呂布どのはただ今調練の最中です、そのうち戻ってくることでしょう」
 張楊がそういったときだった。
「高順……張遼?」
 二将の姿を確認した一人の男が、小さく声を上げた。
「!!」
 自らの名を呼んだ男の姿を確認し、張遼と高順の顔が歓喜に染まる。
「呂布殿!!! ご健在で何よりでございます」
 高順は調練を終えて戻ってきた自らの主君・呂布にむかって拝礼をする。
「ひさし……ぶり、だ」
 呂布は小さくそう言って、後ろの輿に目をやった。
「あぁ呂布殿、ご安心ください……奥方たちはご無事です」
「……」
 呂布はゆっくりと厳氏の前まで歩いてくる。
「ほ、奉先様……お会いしたかったです」
 うれしさから、厳氏は瞳から涙を流している。
「あぁ……」
 呂布はやはり無感動な表情のまま、隣で不思議そうにしている自らの娘に視線を移す。
「ちちうえ〜」
「あぁ……」
 厳氏のときと同じ応対をし、呂布は娘の頭に手を載せる。
 久しぶりの親子の再会に、場の空気がいくらか和んでいた。
 が……
「……」
「あ……」
 そこで呂布は、どうすればいいのか呆然と立ち尽くしている董白と目が合った。

ドクン

 呂布の姿を確認したとき、董白の中で何かが崩れ去った。
「あ……ぁ」
 目の前に仇が立っている。
 祖父を殺した男がいる。
「ひ……ぁ」
 自然と懐に手が伸びる。
「……」
 呂布は黙って董白の様子を見守っている。
『この男はおじい様を殺した……私も……殺さ、れる』
 震えが止まらない。
 ずっと大丈夫と言い聞かせてきたのに、少しも大丈夫ではなかった。
『殺される……死にたくない』
 董白はゆっくりと後ろへ下がっていく。
「……む」
「よせ、張遼」
 明らかに錯乱している董白に声をかけようとした張遼を、高順が静止した。
「呂布殿にお任せするのだ」
「……」
 張遼は静かにうなずいた。

「そちらの方は?」
 張楊に問われ、呂布は再び董白に視線を戻す。
「!!」
 呂布に目を向けられ、董白の身体が再び固まる。
「?」
 董白の異変を感じ取り、呂華がゆっくりと董白へ歩み寄り、その手をとった。
「!!」
 たったそれだけのことなのに、董白の様子は少し落ち着いたようだった。
『呂華……ありがとうございます』
 呂華に感謝し、心配そうに自分を見守っている厳氏に大丈夫と視線を返す。
 言わなければ……自分はもう董一族とは関係がない、ただ『呂華の侍女だ』とだけ言えばいいのだ。
「私は……」
「二人とも……俺の、娘だ」
董白の言葉を遮り、呂布が小さく呟いた。
「え」
 董白は突然告げられたその言葉が、全く理解できなかった。
 高順は呂布の言葉に表情を柔らかくし、張遼は意外そうな顔をしていた。
「そうでしたか、お二人とも奥方の厳氏様に似てお美しい」
 張楊も深く気にしなかった。
「それでは久しぶりにご家族がそろったのだ、今日は盛大に祝わなければ」
「いや……」
 張楊の言葉に、呂布は小さく首を横に振る。
「今まで世話になった……そろそろ、俺も……ここを出なければ、ならない」
 突然の言葉に、張楊は戸惑う。
「し、しかし今度はどこに向かわれるおつもりか?」
「進めば、道は……開かれる」
「……わかった、呂布どのがそう言うのなら仕方がない、ここは気持ちよく見送ろう、ならば私も呂布どのがすぐに出ることが出来るように準備をしていよう」
 呂布が一度言ったことは曲げないと理解していたのだろう、張楊はそう言ったきりその場を去っていった。
「今後のことを……話し、合う……さがって、いろ」
 呂布が厳氏へそういった。
「はい、分かりました」
 厳氏は呂布に会えただけで満足だったのだろう、静かにうなずくと董白・呂華たちとともに下がって行った。

―・―・―

「……」
「董白様、どうしました?」
 厳氏に声をかけられ、董白は我に帰る。
「あ……私は」
「まぁ……驚くのも無理はありませんね、私も驚きましたから」
厳氏はそう言って苦笑する。
「あの方は時々、何を考えているのか分からない発言をしますから」
「でも、何故私を……」
 “娘”などといったのか?
 きっと深い理由などないのだろうが、董白には理解が出来なかった。
 だが……何故だろうか? 不快ではなかった。
「なぜ……」
 そう、さっきまで憎しみにとらわれ、恐怖におびえていたのに……。
 ずっと一人だった董白にとって“娘”などというものはよく分からない。
だが、何故なのか……

今は呂布に“娘”といわれたことが、なんだかとても温かかった。

しかし “魔王の孫”としての自分が、その言葉をかたくなに拒もうとする。
その言葉を受け入れてしまうと、自分は自分でいられない。
自分の中の“魔王の血”がそう言い続けているのだ。
しかし……
「あなたは困るかもしれませんが……呂華にとっても、私にとっても……あなたはもう、大切な家族なんです」
「!!」
 厳氏の言葉に、必死にこらえていた何かが音を立てて壊れていた。
「白、泣いてるの?」
「!!」
 自分に心配そうな瞳を向けていた呂華を、董白は黙って抱きしめた。
 董白は瞳から涙を流し、呂華を抱きしめながら、厳氏へと呟いた。
「私は……董卓の孫、です……でも」
 呂華を抱く手に力をこめながら、最後に一言呟いた。
「これからは、ずっと……ここに、いたい……です」
 厳氏はにっこりと笑い、答えた。
「あなたの居場所は、ここにありますよ……“白”」

―・―・―

「呂布殿……突然ここを出るなど、一体どうなさるおつもりか?」
高順の言葉に、呂布は小さく呟いた。
「曹操を、攻める」
「な」
 呂布の言葉に、高順・張遼の両将の表情が凍りつく。
「し、しかしどうやって?」
「……」
 高順の問いに、呂布は黙り込む。
 呂布自身方法は思いついていないのだろう、長い沈黙が訪れる。
「あなたが、呂布奉先殿か?」
 そのときだった、今までどこにいたのか、一人の男が呂布の前に姿を現した。
 身体は小柄だが、瞳にはどこか暗いものを秘めた男。
「お前は?」
 呂布の問いに、男は静かに答えた。
「曹操殿の下で謀臣をさせてもらっているもので、陳宮と申します」
 男の答えに、高順たちが武器を構える。
「しかし……それも今は昔」
 陳宮は高順たちに臆することなく、言葉を続けた。
「私も……曹操殿……いや、曹操を抹殺したい」
「!!」
 陳宮の言葉に、高順たちが再び息を呑む。
「昔はあの曹操こそ天下の覇者と信じていたが……あの男はそんなところで留まる男ではない……そう気が付いたのです。あの男を生かしておくと……きっと後の世にもたらされるのは災いだけだと」
「わざわざ曹操の下からここまで足を運んできた理由は?」
高順の問いに、陳宮はすかさず答えた。
「今、曹操は徐州の陶謙を攻めるためにエン州をわずかな軍師と武将に任せて留守にしています……攻めるなら今です」
 陳宮は続ける。
「しかし、私一人ではどうする事も出来ない……そんなときです、虎牢関で鬼神の如き活躍をした天下無双の豪将、呂布どのがここにおられると聞いたのです」
 陳宮の言葉に段々と熱がこもっていく。
「呂布どのならきっと曹操の蛮行を見逃しはしないと思い、こうして手を借りるべく足を運んできたというわけです」
「そうか……」
 呂布は小さくそういったきり、黙り込んでしまった。
「手を貸していただけますか?」
「呂布殿、俺は反対です……この陳宮という男、いまいち信用できない」
 高順はそういった。
「しかし、先ほどのお話を聞く限り、呂布どのは曹操を攻めるつもりだったのではありませんか? それならば私がお力をお貸しします……私、知に関しては多少の自信があります」
「……」
 呂布はしばらく黙っていたが
「手を、借りよう」
 とだけ呟いた。
「ありがとうございます、今この時より、私は呂布どのの軍師です……必ずやあなたを天下へと導きましょう」
「任せる……」
「それでは殿、まずはエン州の張バク殿の元へ足を運んでいただきます、彼と曹操は昔なじみの仲ですが、彼は最近の曹操の蛮行に疑問を感じておられます」
「分かった」
呂布はそう言って、その場を去っていった。
「……ふん」
「……」
 張遼、高順もその後に続いた。

「……」
 その場に一人残った陳宮。
「ふはは」
何がそんなにうれしいのか、陳宮は肩を震わせて必死に笑いをこらえている。
「フハハハハハハハッ!!!!! 呂布!! うわさには聞いていたが、こうまで扱いやすいとは!!!!」
 ついに笑いをこらえきれず、陳宮は大声で笑い続ける。
「そうだ、私は天下になど興味がない……ただ覇者を意のままに操ることで我が知を知らしめることが出来れば、それでいい」
 曹操は何を考えているのかまるで読めない、あの男を操ることなど不可能だ。
「だが!! あの呂布は違う」
 知は無いが武は申し分ない、まさに自分のためにあるような手駒だ。
「見ていろ……曹操、この乱世に生き残るのはお前では無い……」
 瞳に不適な炎を宿したまま、陳宮は天へ向かって声を上げた。
「この私だ!! あの虎狼を操り……私がお前を倒すのだ!!!!!」

 

 

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