〜徐州の戦い〜

第2話「徐州での出会い」

 

徐州――――――

 徐州牧・陶謙は確実に迫り来る曹操軍に頭を悩ませていた。
「全ては……わしの責任だ」
 曹操の一族を殺したのは他でもない陶謙の徐州兵だ。
 その徐州兵を曹操一族の護衛につけてしまったのは……
「わしのせいだ……」
 臣下が見守る中、陶謙はそう言って頭を抱える。
「ご自分を責めるのはおよしください、陶謙様」
 臣下がそう言って慰めようとも、陶謙の顔は険しいままだった。
「それに、曹操軍がすぐそこまで迫っています、その対策も考えねば」
 別の臣下が言った。
「そうだな」
陶謙はうなずき、臣下を一通り見渡す。
「ん?」
 そこで陶謙は、とある男の顔が見つからないことに気がついた。
「おい、皆の者……糜竺はどうした?」
 糜竺(字は子仲)は陶謙の臣下の仲でも信頼が厚く、人望もある者だった。
 しかし、今この場に糜竺の姿が見つからなかった。
「え?」
 陶謙に言われて、他の者たちも辺りを見るが
「な!! 糜竺め!! この一大事に何をしているのだ?!」
 徐州の一大事に姿の見えない糜竺に、周りのものは明らかに動揺していた。

―・―・―

 徐州―――城下町

「ふん……」
 行きかう人の流れに任せて、趙雲は城下町を歩いていた。
 劉備の元を離れた趙雲は、公孫サンの元へ帰る前に、この徐州へと足を進めていた。
「あの人にはああ言いましたが……やはり曹操は気に入らない」
 劉備がうまく曹操を抑えるようなら自分もおとなしくしているつもりだが、そうでなかったら彼は槍を取り曹操軍と戦うつもりだった。
 徐州の町は今、曹操軍の脅威にさらされている。
 しかし町の人々は不安の中から希望を捨てず、精一杯生きている。
『俺は……このような人たちが苦しむ姿は見たくない……曹操殿、あなたがこの民たちを苦しめるのなら……』
 趙雲がそう、一人決意を固めて町を歩いていたときだった。

ダダダダダダダダダダダダダ……

「?」
 遠くから妙な音が響いてきた。
 例えるなら……人がありえない速度で走っているときの地面を蹴る音。
 音には声も混じっていた。

「ぬぅあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!! 遅刻だ!! 完っ全に遅刻だぁぁぁぁぁ!!!!」
 声の主は男だった。
「ん?」
 趙雲が目を凝らすと、城下町の遥か遠くから土煙を上げておおよそ人間離れした速度で趙雲のほうへ走ってくる男がいた。
 走り出す前は綺麗に整えられていたであろう髪。
 程よく伸ばされた髭は男の品のよさを表しているのだろうが、死に物狂いの形相で走る今の彼はただ純粋に怖かった。
「だ、大体貴様がいかんのだ糜凛!! 何故わしの出仕用の服すべてを水浸しにしていたのだ!!! おかげで服を借りに知り合いの家をあちこち走り回る羽目になっただろうが!!」
 必死の形相で走る男が自らの後ろを必死についてくる女性に怒鳴りつけた。
「だ、だだ……だって兄さん!!! 今日は兄さんお休みだったから休みのうちに服洗濯しておこうと思って」
「ええい黙れ!! 今の徐州の状況を知らんのかお前は!!! 休みもくそもあるかぁっ!!!! この馬鹿妹めっ!!!!」
「な、何ですか!!! 兄さんが前の日にちゃんと言ってくれていたらこんなことにはならなかったんですよ!!! 自分の失敗を棚に上げるつもりですか!!!」
 会話からして兄妹らしき男女は走る速度を緩めることなく大声でお互いを罵倒しあっている。
「……な、何だあの人たちは」
 趙雲がそう呟いたときだった。
「まぁただよ、糜竺さんとこはいつもいつも懲りないねぇ」
「そうだねぇ、でもいつものコトながら本当に仲のよい兄妹だよ」
 趙雲の耳に町人のそんな会話が入ってきた。
 糜竺といえば趙雲も聞いたことがある。
 徐州の陶謙に信頼されさまざまな能力に長けた文官だと。
「……あれが?」
 何とも理解しがたかった。
「ぬうあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
 しかし、現実とはえてしてそんなものだろう、趙雲はそう思うことにして今まさに目の前を通り過ぎようとしている兄妹から目を逸らそうとし
「あぁっ!!!!」
「っ?!」
 突然誰かの悲鳴を聞いた。

―・―・―

「な!!」
 振り返ってみれば、城下町の店の近くに荷馬車が止まっていた。
その荷馬車に高く不安定に積まれていた荷物が崩れかけ、その下で遊んでいた女の子を今にも下敷きにしようとしていた。
「チィッ!!!」
 趙雲はそれに気がついて走り出すが、どう考えても間に合わない。

グラ

それでも諦めずに趙雲は走った。
しかし

ガタン

 積まれていた荷物は崩れ、無情にも女の子の上へと落ちていった。
 誰もが荷物に潰される女の子の無残な姿を想像して息を呑んだときだった。

ズザザザザザザザザザザザザッ!!!!

「!!」

 趙雲は確かに見た。
誰かが荷物の下にいた少女のもとへ飛び込んでいったのを。
ガタガタガタンッ!!!!!

 同時に響いた荷物が崩れ去る音。
「?!」
 重い荷物は地面にたたき付けられバラバラになり、土煙を上げた。
 周りの者が何も言えずに土煙の中の様子を伺っていると。
「けほっ、けほっ!! あぁ〜あっぶなかったぁ」
 突然、土煙の中からそんな声が響いてきた。
 皆唖然として土煙の中から現れたものを見た。
「あ」
 間一髪、荷物が崩れ去るぎりぎりの瞬間に間に合ったのだろう。
バラバラに散乱した荷物の中で、一人の女性が荷物の下敷きになるはずだった女の子を助けていた。

「う、うわぁぁぁん」
 子供は何があったのかよく分からず、ただ突然のことに驚き泣き始めた。
「はいはい、こわかったですね……でも大丈夫ですよ」
 土とほこりにまみれながらも、女性は助け出した女の子を優しくあやしていた。
 だが

ガタンッ

「へ?」
 後ろの物音に、女性は驚いて振り向く。
 女性の後ろでは、完全に崩れていなかった荷物の残りが、さらに崩れ去ろうとしていた。
「!!」
 逃げられない、そう覚った女性は咄嗟に少女を胸に抱き、わが身を盾に少女を守ろうとした。
「はぁっ!!!」

ダンダンダンッッ!!!!

「!!」
 しかし、残りの落下物は女性たちに落ちる前に駆けつけた趙雲によって全て蹴り飛ばされた。
「はぁ……はぁ……」
 趙雲は先に、もう崩れ去る荷物がないことをしっかりと確認すると、後ろの女性と女の子に振り向いた。
「大丈夫ですか?」
 趙雲がそういったのと同時に、息を呑んで事の成り行きを見守っていた町人たちがあわてて駆け寄ってきた。
 その中の一人、女の子の母親らしき女性が女の子の元へと駆け寄ってきた。
「怪我はなかったかいっ!!」
「うん」
 女の子がうなずき、母親も自分で少女の身体をしっかりと確認した後、何もないことが分かると
「ごめんなさいね……でもよかった」
 と少女を力いっぱい抱きしめた。
 それが終わって、再び趙雲と娘を助けてくれた女性へと向き直り
「あなた方のおかげで娘は助かりました、本当にありがとうございます」
 といって深々と頭を下げた。
「いえ」
「そんな、よかったです」
 趙雲も女性も、表情を緩めて答えた。
 
―・―・―

そうして騒ぎもひと段落付き、町人たちも崩れた荷物などを皆で片付け始めていた。
「あ」
 そこで趙雲は気がついた。
「いつまであなたは座り込んでいるのですか?」
「はい?」
 最初に女の子を助けた女性に向き直ると、趙雲はそう言って手を差し出す。
「あ、あぁっ!! すみません」
 趙雲の手をとりながら、女性はゆっくりと立ち上がった。
「な」
「?」
 立ち上がった女性の顔を確認した趙雲が、彼には珍しい間の向けた声を上げた。
 それもそのはず、女の子を助けたのは先ほど走りすぎていったはずの者だった。
徐州の文官・糜竺の妹らしき女性。
歳は趙雲よりもいくつか上であろう。
艶やかな黒髪を上品にまとめ、優しく微笑む姿の美しさに、趙雲は少しばかり戸惑った。
「あ、あなたはさっきここを走り去って行きませんでしたか?」
 心の内の動揺を悟られまいと、趙雲はついそんなことを聞いてしまった。
「あぁ〜……はい、走り去るつもりだったんですが」
 自分が走り去るはずだったほうを見ながら
「走ってる途中でふと横を見てみるとあんなことになったじゃないですか……気がついたらこちらに体が動いてました」
 さも当然のようにそういった。
「……」
 兄さんは先に行っちゃったし、どうしましょう……などと続ける女性を見ながら、趙雲は驚きもあきれも通り越し、何も言い返せなかった。

“ふと横を見て大変なことになっていたからその人を助けた?”

 いつも“弱いものの味方”であろうとし、誰かを助けようとしている彼でも、そんな風に体が動いたことはなかった。

“誰かを助けるのに理由などない”

 そう言いつつも、人というのはいざという時に体が動かず、そんなに簡単に“誰かを助ける”ことが出来ないということを趙雲はよく知っている。

 それなのに、この女性は当たり前のように言った“自然に誰かを助けるために身体が動いた”と。
 それがただ、趙雲には衝撃だった。
「あ、言い忘れてました」
 女性は思い出したように趙雲へ頭を下げる。
「私はこの徐州の者で名を糜凛と申します。あなたのおかげで女の子と私、二人とも助かりました……ありがとうございます」
「あ……いえ」
 未だに頭の中がうまく働いていない趙雲は、糜凛のお礼の言葉にうまく言葉を返せない。
「本当なら何か御礼をしたいのですが……」
「いえ、それは止めていただきたい。俺……わ、私は礼のために動いたわけでは無いので」
 まだ混乱は続いていたが、人を助けた後いつも決まったように言い続けていた言葉はしっかりと出ていた。
 糜凛は少し驚いた顔をしていたが
「そうですか、それではもう一度だけお礼を言わせてください……本当にありがとうございます」
 とやんわり微笑んで頭を下げると、趙雲へ背を向ける。

 


「すみません、私先に行った兄の後を追わねばなりませんのでこれで失礼します」
「あ……はい」
「では……またお会いできればいいですね」
 最後にそんなことを言い残して、糜凛はその場を去ってしまった。
「……」
 趙雲は、しばらくその場に立ち尽くしたまま、自分が何故この徐州に来たのかさえ忘れて、糜凛の去っていったほうを見つめていた。

 

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