〜徐州の戦い〜

第5話「エン州争奪戦」

 

曹操がまだ徐州を攻めていた頃――――エン州

「何っ?! 曹操殿を裏切れだと!!」
 呂布軍の新たな軍師となった男・陳宮の言葉に、陳留軍の太守・張バクは声を荒げる。
「ふざけるなっ!! 曹操殿はわが旧知の友!! 私を信頼してくれてもいるのだ!! そう簡単に裏切ることなど出来るか!!」
 それを聞いた陳宮は、内心で舌打ちをする。
「お言葉ですが……張バク殿は徐州での曹操の蛮行をご存じないのですか?」
「むっ」
 陳宮の言葉を聞いた張バクが言葉に詰まる。
「もちろんここまでその話は届いているはずです! 徐州へ進行した曹操は“復讐心”という魔物にとり付かれ!! 兵どころか罪もない民百姓まで虐殺したのですぞ!!」
「そ……それは」
陳宮は続ける。
「旧知の友を裏切らぬその信義はまことに立派!! しかし曹操のような男を信じていて本当によいのですか!!」
「……」
「今はまだ友好的な態度を見せつつも!! いずれは張バク殿をも裏切るに決まっております!! いやその前に!! 無差別虐殺をした曹操などを信じている張バク殿が民からの非難を受けますぞ!!」
 陳宮の言葉に、張バクは何も言い返せない。
「今ならまだ間に合います!! 我が殿は剛勇の鬼神・呂布殿!! 殿と張バク殿が結ばれれば曹操などおそるるに足りませ……」
「だまれっ!!」
 陳宮の言葉を、張バクが遮った。
「陳宮殿、貴様に曹操殿の何が分かるっ!! 確かに徐州での大虐殺には私も曹操殿に疑問を感じた!! しかし!! 曹操殿は決して“復讐心”などというつまらん感情に捕らわれ己を見失うような人物ではないっ!! この度彼が背負ったこの悪名にもきっと意味があるはずだ!! 私は彼を信じる!!」
 それを聞いた陳宮の瞳が暗い影を帯びる。
「私からすれば!! 曹操殿の臣下でありながら曹操殿を裏切り、義父殺しで有名な虎狼・呂布などと手を結んだ貴様のほうが信用できぬわ!!」
「……」
 言葉を終えた張バクは陳宮へ背を向け、その場を後にしようとする。
「もう話すことなどない!! 早急に立ち去るがよい!!」
「それは無理です……」
 陳宮の言葉に、張バクが振り返る。
「何? どういうことだ……」
「ハハハハ……張バク殿、今のあなたの言葉……ぜひ曹操に聞かせて差し上げたかったよ、さぞお喜びになられるだろうな」
 先ほどまでとは明らかに態度の違う陳宮に、張バクは身構える。

「……」
「信じるだと?! あの曹操を……笑わせてくれる」
「陳宮、貴様……何を企んで」
「それはさっきも言っただろう? 私が望むのは“曹操の抹殺”!!」
 陳宮は瞳に暗い影を落としたまま続ける。
「そして……あなたにはなんとしても私達に協力していただく!!」
 そういうと陳宮は外を指差す。
「なっ!」
 外を見た張バクは、驚きのあまり言葉を失う。
 一面に掲げられたのは『呂』の旗。
「張バク殿は曹操を信じるといっておられるが……民や兵は違うのです……彼らは曹操を恐れている!! 私達の“曹操を抹殺したい”という考えに快く賛同してくださりました!! 張バク殿……もうあなたに残された道は二つに一つ、私たちと共に立ち上がるか、それとも……」
 陳宮は暗い笑みを浮かべ、張バクへ呟いた。
「無意味にここで朽ち果てるか……」
「……くっ」
 もはや、張バクに道は残されていなかった。

―・―・―

 陳宮の策によりエン州のほとんどが寝返り、曹操に味方するものはわずかになってしまった。
 しかし……
「ええい!! 忌々しい!!」
 残された曹操軍の立てこもるケン城を攻めていた陳宮は、小さく舌を鳴らす。
 圧倒的な兵力差で休む暇なく責めているにもかかわらず、いつまでたってもこのケン城を落とすことができないでいたからだ。

オオオオオオオオッ!!!!!

 城を陥落させんと攻める呂布軍。
「うおおおおぉっ!!!」
 しかし、一人の男が率いる小さな一軍に易々と突き崩されてしまう。
「貴様らっ!! この夏侯惇がいるかぎり!! この城は落とさせん!!!」
 呂布軍にむかって大声を上げた男は曹操軍の猛将・夏侯惇、彼は曹操に約束した留守中の守備を見事に果たしていた。
 そして、この城を落とすことができないのは夏侯惇一人だけが原因ではなかった。
「荀イク……程イク……おのれっ!!」
 呟き、舌打ちをしながら陳宮が思い浮かべるのはかつての仲間。
そう、ケン城の守備を夏侯惇と共に任された曹操軍の二人の軍師・荀イクと程イク。
 彼らの的確な守りと奇策、それに夏侯惇の猛勇が加わり、圧倒的な力を持つ呂布軍でさえ、このケン城は落とすことはできないでいた。

 そうして曹操軍必死の奮戦に応えるように、徐州から兵を引いた曹操本人がエン州へと戻ってきた。

―・―・―

 帰ってきた曹操はすぐさま呂布軍の立てこもる濮陽を包囲し、呂布軍の主力騎馬隊と激突していた。
「おおおおおぉぉぉぉぉぉ!!!!!」
 徐州侵攻の疲労を感じさせない曹操軍の攻勢を、呂布軍も正面から迎え撃つ。
 圧倒的な士気の高さで攻める曹操軍。
 しかし……
「ぐあぁっ!!」
「がはっ!!!」
「ひぃぃぃっ!!!」
 戦場に響く曹操軍の悲鳴。
「……」
 群がる曹操軍を一薙ぎで屠るは人中の鬼神。
「さすが呂布君だ……強いね」
 曹操の表情には珍しく余裕がない。
「荀攸? 何か策は無いかね」
「徐州から帰ってきたばかりで策を考えるも何も……」
 そう言いながらも必死に何か策をひねり出そうとしているのだろう、荀攸は頭を叩きながら難しい顔をしている。
 そんな時だった。
「曹操様っ!! 我々も戦わせてください!!!」
「君たちは……」
 曹操に声をかけた人物は、青洲黄巾の乱で曹操が味方につけた黄巾の民・青洲兵の若者たち。
「今こそ、我々も曹操殿のお力になりたいのです!! どうか我々にも出撃を!!!」
「そうだね」
 青洲兵の言葉に曹操が力強く答える。
「よし、青洲兵の諸君!!! 私に続け!!!」
 曹操は自ら剣を抜き放ち、呂布軍へとぶつかっていく。

オオオオオオオオオオッ!!!!!!

 青洲兵も曹操の後に続き、呂布軍を相手に奮戦する。
 だが
「……」
 無感動にふるわれる大矛・方天画戟。
「ぐはぁっ!!!」
「ごっ!!!」
 無残な肉片にされる青洲兵。
 呂布率いる騎馬隊の力はすさまじく、曹操をあれだけ苦しめた青洲兵ですら簡単につき崩れてしまっていた。
 さらに
「いまだっ!! 曹操を討ち取れ!!!」
 濮陽城から陳宮が声を上げ、一斉に矢が射掛けられる。
 雨のように降ってくる矢に曹操軍はなすすべもなく倒れていく。
「くっ!!!」
 曹操も矢を払いながら必死に戦うが
「……」
 そこへ容赦なく攻めてくる呂布。

―ゴゥン!!!―

 風を切って振るわれる方天画戟。
「っと!!」
 曹操はそれを避けながら剣を振るう。

―ヒュッ!!―

「ぐっ!!」
 その時、一本の流れ矢が曹操の方に突き刺さる。
「……」
 呂布はその隙を逃すことなく、無感動に方天画戟を振り下ろす。
「……フン」
 今の曹操に呂布の方天画戟を受けることなどできず、自らを守ってくれていた青洲兵のほとんども突き崩されてしまった。そして、もはや何の策もない。
 絶体絶命、呂布の方天画戟が振り下ろされた時、曹操の覇業は終わりを告げるだろう……。
 だが……
「フフン」
 曹操の表情は、死を間近にした人間のモノではなかった。
 それもそのはず、彼は自らがここで死ぬなどとは一切思っていなかった。
 なぜなら……

―ガキィン!!!―

「!!」
 曹操の命を奪わんと振り下ろされる呂布の方天画戟を受けるものがあった。
 驚く呂布を見ながら、曹操は自信たっぷりに呟いた。
「なぜなら……私はこの乱世の覇者だからね♪」

―・―・―

「……ふむ」
 曹操の目に映ったのは二本の巨大な戟。
 そしてその、常人では両手で扱う事も難しい二本の巨戟を片腕で一本ずつ操る一人の巨漢。
「曹操様っ!! 遅れて申し訳ありませぬ!!!」

―ギィンッ!!!―

 呂布の方天画戟を、手にした双戟で弾き返した巨漢は、曹操へと向き直る。
「見たことがない顔だが……私の味方でいいのかね?」
「もちろん!!」
 曹操の問いに、巨漢は身体に似合った大きな声で答える。
「此度の夏侯惇将軍の遠征先にて、将軍にその武勇を認められ曹操軍に加えていただいたもので、名を典イと申します!! 曹操殿の身を守るよう将軍に命じられ、ケン城より馳せ参じました!!!」
典イはそう言って双戟を大きく構え直し、曹操へ拝礼をする。
「まったく……惇のやつめ、このような素晴らしい武将を隠していたとはとてつもない大罪だね……」
 そう言いながらも顔はとてもうれしそうに
「七十点加算だ♪」
 と呟いた。
「……」
 そうして拝礼を終えた典イは、目の前の呂布へと向き直る。
「では曹操様!! ここは我に任せ今一度お下がりください!!」
 双戟を振りかざし、典イは呂布へ突進する。

―ギィン!!!―

「!!」
 予想をはるかに上回る攻撃だったのだろう、典イの右戟を受け止めた呂布の表情が変わる。
「むぅん!!!」
 典イは休むことなく左戟を振り回す。

―ガィン!!!―

 呂布も決して劣ることなくそれを弾き返す。
 そうして典イが呂布を押さえているうちに曹操軍は一時退却。
 曹操も無事に帰還することが出来た。

―・―・―

 結果的には敗北したが、典イの活躍により曹操は無事に帰還し、曹操軍は次の策を考えることにした。
 後から駆けつけた典イによれば、濮陽の豪族田氏は曹操の味方らしい。
 それを聞いた曹操は田氏に密偵を出し濮陽城を内から開門するように指示を出した。
 田氏はこれにしたがい濮陽城を内から開門。曹操軍は城内に入り激しい戦いを繰り広げた。
 しかし、この何ヶ月にもわたる濮陽城争奪戦は思わぬ形で幕を閉じることになった。
 突然エン州をイナゴの大群が襲い、あらゆる作物や木々の葉まで、ありとあらゆるものを食い尽くしていってしまった。
 飢饉に穀物の高騰、民は疲弊し内で争いが起こるほどだった。
 そうなっては曹操も呂布も戦どころではなく、濮陽で対峙していた両名は一時休戦に入らざるをえなかった。

 一方、曹操の脅威からひとまず救われた徐州でも、大きな流れが起きようとしていた。

―・―・―

徐州・小沛――――

「は……? 俺に徐州をっ?!」
 突然訪問してきた陶謙の参謀・糜竺の話を聞いた劉備は、思わず間の抜けた声を上げてしまった。
「はい、最近わが主である陶謙様は病に蝕まれ……曹操の危機にさらされているこの徐州の未来をひどく憂えておられます」
 糜竺は続ける。
「陶謙様は言いました。『わが息子は凡庸でとてもではないが曹操の手から徐州を守ることなどできない、徐州の未来を託せるのは劉備殿を置いて他にはいない』……と」
「いや、でもよぉ」
 糜竺の言葉にも、劉備はイマイチ乗り気ではなかった。
「なんだよ兄貴、頼まれてんだからありがたくもらえばいいだろ!」
 素直にそういったのは張飛。
「張飛の言うとおりです兄者、この頼みを受けることが徐州の民を救うことにもつながるのですぞ」
 張飛に同意してうなずく関羽。
「お二方の言うとおりです、まぁあなたにそんな大役が務まるとは俺には到底思えませんが他でもない徐州牧の頼み、素直に受けたらどうですか?」
 皮肉たっぷりに言ったのはいつの間にか劉備たちに合流していた趙雲。
「だーもう!! うるせーよおまえら!! 好き勝手言いやがって!! つか常龍児お前いい加減伯佳(公孫サンの字)サンとこ帰れよっ!! なんでさも当然のようにこんなとこにいるんだよ!!」
劉備はそう言って自らの義弟たちと趙雲に怒鳴りつける。
「つか兄貴は何でそこまで徐州もらうのが嫌なんだよ?」
 張飛の言葉に、劉備は大きくため息をつきながら答える。
「いや、今ここで『はいどうも〜♪』とかいって徐州ホイホイもらってみやがれ!! 『劉備って他人の不幸に付け込む寄生虫? 最低のクズ野郎だ!!』とか言われるに決まってるだろ?」
「当たっているのだから気にすることは無いと思いますが……」
「ほっとけ常龍児!!」
 劉備に言われて趙雲はやれやれとため息をついて黙る。
「それによ……」
 劉備は糜竺に向き直り、さらに続けた。
「ここまで世話になってるあんた達にだから正直に話すが……ぶっちゃけこの徐州って曹操だけじゃなくて袁術も狙ってるってうわさだぜ? そんな滅茶苦茶あぶねー所もらってもなぁ……」
「腰抜け兄貴……」
「テメーもうるせーんだよ益徳!!」
 劉備はそう言って張飛にも怒鳴ると再び糜竺に向き直る。
「つーわけだからよ……とりあえずこの話はなかったことに、陶謙サンにはやく元気になるよう伝えてくれ、俺も近いうちに見舞いに行くからよ」
「……分かりました、この場は引き下がりましょう」
 今は何を言っても無駄と悟ったのか、糜竺もこのたびはおとなしく引き下がった。

 間も無くして、徐州牧・陶謙は病に勝つことができずにこの世を去った。
 糜竺は再び劉備のもとを訪れ、彼を説得をした。
 はじめは乗り気ではなかった劉備だが、関羽たち義兄弟や陶謙の臣下、そして徐州の民たちにも説得され、ついに徐州を譲り受けることにした。
 徐州牧・劉備誕生の瞬間であった。

―・―・―

「劉備殿、このたびは陶謙様の遺志を継ぎ、徐州を譲り受けていただいたことに感謝いたします」
「ったく……散々説得しといてそりゃないぜ」
「兄者、そんな言い方は無いのではないですか? 糜竺殿は……」
「わかってるって、悪かったよ!! 受けたからにはちゃんとやるって……にしても趙雲のヤロー、散々好き勝手いっといて俺が徐州牧になる前にさっさと伯佳サンのとこに帰りやがって……」
 そんな会話をしている時だった。
「それで劉備殿……」
 糜竺が突然口を開いた。
「何だ? 急に改まって」
「徐州牧に就任していただくことを条件に、私と孫乾両名は劉備殿の臣下に加えていただきましたね……」
「あぁ、そうだな」
 劉備が徐州牧をうけた理由のひとつに、この糜竺・孫乾両名を譲り受けるということがあった。
 エン州で曹操の本拠地をことごとく奪ったのは新たな呂布の参謀・陳宮の策だという。
 今まで“知”をあまり重要視していなかった劉備だが、この話を聞いてからは自分の臣下にも知恵者がほしいと考えていた。
 劉備の読みは正しく、この糜竺・孫乾は後の劉備をよく補佐し、彼の軍になくてはならない存在となる。
「で? それがどうしたんだ……」
 劉備の問いに、糜竺はゆっくりと答えた。
「どうか私の忠誠の“証”を受け取っていただきたいのです」
「証?」
 糜竺はそう言うと、広間の奥へと声をかける。
「入りなさい……」
「……はい」
 糜竺に呼ばれ、広間に入ってきたのは一人の女性。
「……おい、糜竺サンよ……誰だそれ?」
 劉備は入ってきた女性の意味が分からず、首をかしげる。
「この娘はわが妹で名を“糜凛”と申します……どうか劉備殿……」
 糜竺は劉備へ頭を下げながら、続ける。
「この娘を劉備殿の“妻”にしていただきたいのです」
「……は?」
 突然の頼みに、劉備は間の抜けた声をあげてしまう。
「い、いやちょっと待ってくれよ糜竺サン……俺にはもう妻が」
「もちろん甘流様のことはご存知です、ですから形だけでもいい……この娘を劉備殿の“側室”に……」
 そこまで聞いて、劉備の目が鋭くなる。
「つまりは……人質か?」
「……はい」
 糜竺は正直に答えた。
「どーゆーこった? 自分で俺を徐州牧にしといて……まさか俺の事が信用できねぇのか?」
「いいえ……陶謙様が信じたお方を信じられないはずがありません」
「じゃあ、なんでだ?」
 普段の劉備からは想像できない……暗く、怒りをはらんだ声色だった。
「私なりのけじめです……」
「けじめ?」
 糜竺は続ける。
「はい……私は今まで陶謙様に今まで重用され、多大なご恩を受けてまいりました……先ほど申したように、その陶謙様が徐州を託すといった劉備殿を疑う気持ちなど微塵もありません……しかし」
 糜竺はさらに続ける。
「このままではいくら劉備様にお仕えしようと……わたしはいつまでも“陶謙様の臣下”としてあなたに仕えてしまう気がするのです」
「……」
「ですから……わが妹をあなた様の“妻”とすることで私本人が“劉備様の臣下”としてお仕え出来るけじめとしてほしいのです……どうか」
 そこまで言って、糜竺は再び頭を下げた。
「アンタのけじめのために無関係の妹サンを巻き込むことはどう思ってんだ?」
「勝手なことだとは存じております……ですが!! だからこそ!! 私はこれから先をただ劉備様のため!! 天下のために身を砕くことができます!!!」
 そこで劉備は、初めてその場にいた糜凛と目を合わせる。
「妹サンよ……あんたはそれでいいのか?」
「……はい」
 小さな声だが、確かにはっきりと、糜凛はうなずいた。
「兄は今まで私のために生きてきてくれました……その兄がけじめをつけるためというのであれば……私は何を言われても拒みません」
 言っていることに一切の嘘偽りがない、ということは劉備にも分かった。
「……兄者」
 その場に共にいた関羽が声をかけるが、劉備は答えない。
 やがて
「わかった……糜竺、アンタの妹サン……俺がもらうぜ」
 静かに、だがはっきりと劉備は言った。
「ありがとうございます……このときより私は劉備様一生の臣下……」
 下げていた頭をさらに低く地面に付け、糜竺は礼を述べた。

その夜――――

「えーっと……妹サンよ」
「糜凛……とお呼びくださってかまいませんが?」
 劉備と糜凛は劉備の正室・甘流の居る部屋へと足を進めていた。
「あぁ……糜凛サンよ、とりあえず甘流には話しといたから……しばらくは仲良くやってくれ」
「……はい」
 劉備の言葉に、糜凛は静かに答える。
「……でだ」
「はい?」
 劉備が突然立ち止まって糜凛に向き直る。
「俺は糜竺を絶対に裏切らねぇ……アンタの生活も絶対に不自由させねぇ……でも」
 残酷なことと分かっていながら、劉備ははっきりと告げた。
「俺の妻は甘流だけだ……」
「わかっています」
 言葉通り、本当に糜凛も分かっていたのだろう、驚いた様子もなくうなずいた。
「……だからよ」
「はい?」
 劉備の言葉がさらに続き、糜凛は首をかしげる。
「俺とアンタはあくまで“対等”……ってことでいいか?」
「対等?」
 意味が分からず首をかしげる糜凛に、劉備は続ける。
「まだ会って間もないけどよ……甘流と違ってあんたは俺と似てる気がするんだよ……」
「似てる?」
「なんか纏ってる空気って言うか……まぁとにかくそんなんが似てる気がするんだ……」
「はぁ……」
「だからよ……」
 糜凛に手を差し出しながら劉備は言う。
「俺たちはお互いに遠慮なくやっていこうぜ……俺になんでも思ったこといってくれ、さっきも言ったとおり……もう俺が糜竺を裏切る事も、その逆もありえないからよ……」
 差し出された手を見ながら、糜凛はしばらく戸惑っていたが……
「えぇ……それじゃあお言葉に甘えて」
 劉備の手を握り返すと
「いろいろありがとう……劉備さん」
 “対等”の相手に語りかけるような口調で、にっこりと微笑んだ。

―・―・―

「あの……」
 部屋に入り、糜凛は部屋の主・甘流へと声をかける。
「……」
「あ……」
 振り向いた甘流を見て、糜凛は戸惑う。
 自分より幾分か年若い甘流の瞳が赤くはれている、今まで泣いていたのは明白だった。
 無理もない……糜凛は内心そう思う。
 この時代、一夫多妻は珍しくないとはいえ、それでも愛したものが自分以外のものを妻にしたら、誰だって悲しいだろう。
 甘流にしてみたら、糜凛は大切な夫との間に入ってきた邪魔者でしかない。
 だがそうだとしても、甘流と糜凛は同じ劉備の妻、これからの為にも糜凛は自ら挨拶をするため、甘流へと頭を下げようとし……
「ごめんなさい……」
「……え?」
 突然、思いがけない言葉を聞いた。
 甘流は泣きはらした目からさらに涙を流し、続ける。
「玄徳様から話は聞きました……玄徳様のせいで……あなたに……とても、つらい思いを、させてしまって……」
 ごめんなさい……涙を流しながら甘流はもう一度そういった。
 そう、甘流は夫が自分以外のものを妻に迎えたから泣いていたのではなかった。
 自分の夫のせいで誰かの人生を狂わせてしまった。
 それが悲しくて仕方がなかったのだ。
「……」
 そんな甘流をみていた糜凛は

ぎゅっ

「えっ?」
 突然甘流を抱きしめる。

 


「そこまで私なんかのことを心配してくれたのですね……ありがとうございます」
 糜凛もまた糜凛だった。
 先ほどの甘流の発言は、人によっては『上からものを言っている』と噛み付かれることもある言葉。
 それなのに糜凛も、自分のために泣いてくれている、この自分よりも年若い甘流を見ていられなくて、ただ彼女を抱きしめた。
「私は大丈夫ですから……あなたももう泣かないでください」
「……はい」

 しばらくお互いに何も言わずそうしていたが

クス

 甘流を抱きしめていた糜凛の耳に、ふと笑い声が聞こえる。
「え……あの、甘流……さん?」
「なんだか不思議……です」
 涙は止まっていたが、泣きはらし真っ赤になった目のままで、甘流は糜凛に呟いた。
「あなたに抱きしめられていると……玄徳様に抱きしめられているみたいで……とても……落ち着きます」
「ええ……劉備さんも私が自分と似ていると仰っていました」
 顔を見合わせた二人は、そんな会話をしながらお互いに笑った。

 甘夫人と糜夫人……同じ劉備の妻として、二人はこれから協力し、共に生きていくことになる。

―・―・―

ザッ

 荒れ果てた荒野を、当てもなくさまよう小さな一団。
 皆がボロボロで、歩みにも力が無い。
「……」
 その一団の中、馬に乗った一人の男。
 比較的小柄で、その瞳には暗いものが秘められている。
 髪は乱れ、服もホコリだらけの見るに絶えない姿。
「なぜだ……」
 男・陳宮は馬に跨りながら、ずっとそんなことを呟いている。
「何故私が……負けた」
 まわりのものには決して聞こえない呟きで、陳宮は何度目になるのか、同じ呟きを漏らす。
「何故私が……曹操などに……負けた」


 イナゴの大群がエン州を襲い、呂布・曹操両名は一時休戦に入らざるをえなかった。
 しかし翌195年、曹操・呂布両軍は再び兵を挙げた。
 南城、鉅野をはじめさまざまな場所で激突を繰り広げた両軍だが、この全ての戦に呂布軍は敗北。
 曹操は一時的に呂布たちに奪われていた?州を見事に奪還していた。


 陳宮に呼応した張バクの弟・張超は雍丘での籠城戦にて曹操に敗北、張バクの一族もろとも処刑された。
 最後まで曹操を信じて疑わなかった張バクは、曹操を裏切ってしまったという罪悪感から自ら命を絶っていた。
 そして曹操軍に壊滅寸前の大打撃を受けた呂布軍は、今こうしてわずかな敗残兵と共に当てもなく荒野をさまよっている。

「……私に間違いは無かったはずだ」
 陳宮は呟く。
「張バクを利用し……エン州を我が物にした……」
 ケン城を落とすことはできなかったが、濮陽では曹操軍を一度は退けた。
 そこでも豪族の裏切りにあい城を奪われることにはなったが、まだこちらにも十分は蓄えがあった、あのまま戦っていたら負けてなどいなかったはず。
「それなのに……」
 虫けら如きに戦を中断され、こちらの蓄えがすべて無駄になってしまった。
「曹操は……本当に『天』を味方にしているとでも言うのか!!」
 頭を抱えながら、陳宮は首を振る。
「そうではない、イナゴによる被害を受けたのは向こうも同じ、いわば条件が五分になっただけの話……」
 今回の敗因は、それ以降にある……。
 南城、鉅野……それらをはじめ他の場所でも戦ではことごとく負けた。
「呂布軍が私の予想よりも弱かったのか……?」
 どの戦でも呂布、高順、張遼率いる精鋭が、曹操の軍になすすべもなくやられた。
 しかし……
「違う……呂布軍は完全に私の手足となり完全に私のいう通りに動いた……呂布軍の力は本物だった……」
 ごまかすな、心の中の自分がそう告げる。
「……くっ」
 そう、陳宮本人はもう分かっている。このたびの戦の敗因を。
 天、地、人全てにおいて完璧だった。
 負けたのは……もっと単純なこと。
「……私だ!!」
 歯を食いしばりながら陳宮は呟いた。
「全てが私の責任だ!! 私が単純に曹操に勝てる器ではなかったのだ!!」
 認めたくはなかったが、その事実が嘘であると証明しようとすればするほど、結局は自分の責任であったという結論に行き着いてしまう。
 陳宮はこのとき初めて、挫折というものを思い知らされた。
 曹操の元を離れた時、自分にはまだ可能性があると信じて疑っていなかった。
 何を考えているかも分からぬ奸雄如き、自らの力で抹殺できると。
「しかし……違った!!」
 曹操のことが理解できていなかったのは、単純に自分が曹操に劣っていただけの話。
 きっとどれだけ強力な兵に強固な城、さらには天を味方にしたとしても、自分では曹操に勝つことなどできない。
 そのことが、陳宮には分かってしまっていた。
 その時だった。
「陳宮様」
「?!」
 急に自らの名を呼ばれ、陳宮は我に帰った。
 気がつけば、呂布軍の兵士が心配そうにこちらを見ている。
 どうやら何度も名を呼ばれていたらしいが、それにすら気がつかぬほど考えることに集中していたらしい。
「ど……どうした?」
 いつまでも呆けているわけにもいかず、陳宮は兵士へ問うた。
「はっ! 他の兵の疲労はもはや限界に達しております……どうかこの辺りで兵を休ませてはいただけませんか?」
「……」
 そういわれ、兵たちに目をやる陳宮。
 今にも倒れそうなもの、怪我をした足を引きずるもの、動けない仲間に肩を貸すもの、確かに……馬に乗っているもの以外はとてもではないがこれ以上進める様子ではなかった。
「そうだな、わかった」
 陳宮はそう言うと馬を走らせ、先頭にいた呂布へと声をかける。
「呂布殿、兵の疲労が限界に達しております、このあたりで一度兵を休ませましょう」
「……あぁ」
 呂布も分かっていたのだろう、すぐに全軍を止めて兵を休ませた。

―・―・―

「殿、どうぞ……」
 陳宮はそう言って、自らの愛馬・赤兎の世話をしていた呂布へ糧米を差し出す。
 逃げ延びる際、最低限持っていくことができたものだ。
「……」
 呂布はそれを受け取りながら、陳宮に問うた。
「お前、は?」
「他の兵や、将の分を確保するので精一杯……私は結構です」
 今、このあてのない進軍で最も無用なのは自分、陳宮はそう考えていた。
 疲れ果て、戦えない敗残兵を狙う野党も居るかもしれない、そのような可能性を考えたら、少しでも兵に力を残しておくべきだと、陳宮は考えていた。
「そんなことより……殿」
「なん、だ?」
 受け取った糧米を口には運ばず、呂布は陳宮のほうをむいたまま聞く。
「これからの事ですが……私にひとつご提案があります」
「聞こ、う……」
「このまま当てもなくさまよっていても、いずれは皆朽ち果てるのみ……それならばいっそ、他のものを頼るのはどうでしょうか?」
 陳宮は続ける。
「最近徐州の牧・陶謙が死に、その代わりに劉備玄徳が徐州を治めていると聞きます」
「劉備……?」
 何を聞いても無感動な呂布が、珍しく人の名に反応した。
「はい……今はその劉備を頼るのが最も無難かと思われます」
 呂布の様子が多少気になったが、陳宮は続けた。
「袁術、袁紹……あのあたりは何を企んでいるかも分かりません……劉備も曲者という意味では同類ですが、根本的には甘い男と聞いております……このまま徐州の劉備を頼るのが一番確実だと思われます」
「……わかった」
 呂布は深く考えることなく、陳宮の言葉にうなずく。
「それでは、奥方様たちをお迎えに行った張遼にもそのように伝令を出しておきます、殿はこのまま徐州へ向かうということでよろしいですね?」
「……あぁ」
 呂布はそう答えると、一度赤兎のたてがみをなで、自らに与えられた糧米を口に運び始める。
「それでは、私は兵たちにこのことを……」
 そう言って陳宮が呂布へと背を向けたとき
「待て」
 不意に呂布に呼び止められた。
「なんでしょうか?」
 振り向いた陳宮に、呂布は自らの糧米の残りを差し出す。
「……は?」
 突然のことにわけが分からず、陳宮は間の抜けた声を上げてしまった。
「お前も、食え……」
 呂布はそれだけいうと自らの糧米を陳宮に押し付け、赤兎を引いていく。
「お、おまちくださいっ! 殿が軍師などを気遣ってどうするのですか? あなたが倒れたらこの軍は終わりですぞ」
 そう、陳宮は本当にそのことだけを心配していた。
 自分の身体はまだ大丈夫、だがもし呂布が倒れたらこの軍は本当に存在価値をなくす。
 徐州の劉備を頼るにしても『呂布』という魅力的な番犬を交換条件に出すことが出来なくてはうまくいかないだろう。
 それに、陳宮には分からなかった。
 何故軍の大将が、たかが軍師ごときに大切な糧米を分け与えるのか……。
「……お前が倒れても、困る」
 不意に、呂布がそんなことを呟いた。
「な」
 最初……陳宮には言葉の意味が分からなかった。
「困る……?」
 何を言っている? 陳宮はそんなことしか考えられなかった。
 今このような惨めな思いをしているのも、もとをただせば自分の責任。
 そんな存在価値のない軍師が……倒れると、困る?
 訳が分からなかった。
 そんなときだ。
「えっ!! 陳宮様まだ食ってなかったのですか!!」
 呂布と陳宮のやるとりをみていた呂布軍の兵士が一人、そんなことを言いながら近づいてくる。
「俺はてっきり陳宮殿はもう飯食ったものと思ってましたよ」
 そう言いながら、陳宮が持つ呂布の糧米に、兵士は自らの糧米の残りをのせる。
「呂布様の言うとおりだ!! あなたの指示通りにしたからこそあの曹操を相手にここまでの戦いが出来たんですよ!! 俺本当に感動しました!! あなたに倒れられたらこの軍は終わっちまいますよ!!」
「それはどういうことだ?」
陳宮にそう言って笑っていた兵士に、後ろから呂布軍看板武将の一人・高順が声をかける。
「こっ!! 高順様!!!」
 高順の姿を確認した兵士が、驚いて声を上げる。
「この軍師がいなくなったら呂布軍が終わるだとぉ〜? 私や張遼、ましてや呂布殿がいるこの軍がか?」
 逃げようとした兵士の頭を掴み、高順がそんなことを言う。
「い、いやっ!! そう言う意味じゃないですよ!! ただそのっ!!」
 涙目になって必死に逃げようとする兵士を見て、高順は笑う。
「あっはっはっは!! よく言った!!」
「は?」
「……へ?」
 突然の大笑いに、兵士ばかりか陳宮までもが間抜けな声を出してしまった。
「おい軍師」
 兵士の頭から手を離すと、高順は陳宮へと向き直る。
「言っておくが、俺はお前が嫌いだ」
「……」
 無論、陳宮も分かっていた。
 何かといえば呂布殿、呂布殿と扱いにくいこの高順という男を、陳宮も嫌っていたから。
「だがな……さっき言ったこいつの言葉は本当だ」
 高順はそう言いながら兵士の背中を叩く。
「呂布殿とともに董卓様のもとにいたとき、俺はあの絶対的な勝利の動きを自分たちだけのものと思っていた……しかし、お前に戦での動き方や隠れ方などを聞いているうちに、董卓軍での動きも自分たちだけではなく軍師の力が合わさったものだったと思い知らされた」
「……」
「悔しいがこれでは認めなければならん……それに今、あてもなくさまよっていた俺たちに新しい道を示そうとしている、お前が居なけりゃこれから俺たちはこれからやっていけんようだ」
 そう言いながら、高順も自らの糧米を陳宮の持つ糧米の皿へと移す。
「そうでしょう? 呂布殿」
 陳宮たちのやり取りを黙ってみていた呂布は、高順には問われ、答えた。
「陳宮……お前は、この軍、に……“必要”だ」
「!!」
 呂布の言葉が終わると同時に、あちこちから呂布軍の兵士たちが陳宮へと歩み寄ってくる。
「そ、そうだぜっ! 陳宮殿!! これからも俺たちを助けてくれよ!!」
「頼むぜっ!! 陳宮殿!!」
 兵士たちはそう言いながら次々と自分たちの糧米を陳宮の皿へと移していく。
「……あ」
 気がついたときには、陳宮の持つ糧米の皿は山盛りになっていた。
「……何を、言って?」
 自分に笑顔を向ける兵たちを見て、陳宮は混乱を隠せない。

 


 自分が必要? 戦で大きな失敗をし、軍を無様に敗北へと導いた自分を?
 自らの野心のために、皆を利用しようとしていた男を?
「必要だ……と?」
 曹操の元にいたときには……否、今まで陳宮が生きてきて、誰かに一度も言われたことのない言葉。
 何故この者たちが自分を必要とするのか? そんなことはまったく分からない。
 だが、いつの間にか、陳宮の瞳からは涙が流れて止まらなかった。
 今まで味わったことのない感情が、胸にこみ上げてくる。
「あ……あぁ」
 その場に崩れ落ちながら、陳宮は涙を流した。
 もちろん、そんな様子を不思議に思い、皆が自分を心配してくれる。
 もう分かった。
 今まで味わったことのないこの感情の正体が……。

「私は……うれ、しい」

 そう……陳宮は今、必要とされることを何よりも喜んでいた。

 そのことに気がついたとたん、陳宮は今まで自分に取り付いていた暗いものがふと消えていったような気がした。

 自分に目を向ける皆が、今までとはまるで違って見えた。

 だからこそ……言わなければ。

「呂布殿……みんな……」
 涙を流しながら、陳宮は
「今まで……申し訳ありませんでした……今度こそ……私は皆に勝利を与えて見せます……だから……」
 自らに目を向ける呂布軍全員に……言った。
「私と共に……戦ってください」
 と。
 もちろん、それを拒むものなど、その場には存在しなかった。
 陳宮は思った。
 自分ひとりでは曹操には勝てない。
 だが、皆と力を合わせれば……きっと曹操相手でも勝てる、と。

 エン州を奪還され、何とか逃げ延びた呂布軍は徐州へと向かい、劉備を頼ることにした。
 劉備はこれを受け入れ、呂布に小沛の城を任せることにした。

 この後も乱世ではさまざまな戦、裏切りが起こるが、陳宮はこの時から最期のときまで、呂布軍の軍師として戦い続けることになる。

 

 

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