〜虎牢関の戦い・後編〜

第3話「伏兵戦


 曹操は指揮を取り、自身も剣を振るいながら、難しい表情で戦場を眺めている。
「どうしました? 殿」
弓を操り、董卓軍の兵士を射ち落としていた夏侯淵が、曹操の表情に気がつき声をかける。
「まずいね……」
近づく董卓軍の兵卒を切りながら、曹操はやはり難しい表情で呟いた。
「?」
夏侯淵には分からなかった。
 曹操軍は約五千、全体の軍の数からするとどう考えても多くは無い。
しかし董卓軍本隊二万を相手に互角の勝負をしている。否、夏侯惇と自分の活躍で確実に董卓軍を押している、と考えていた。
 それなのに、曹操は董卓軍を押せば押すほど表情を難しくしていく。
「……」
自らの周りに残っていた董卓軍の兵卒最後の一人を切りつけると、曹操は何かを決心した表情で声を上げた。
「全軍退却!! すぐに虎牢関から出て本陣に戻るんだ!!!」
「「はぁぁぁぁぁ?!」」
夏侯兄弟はこの戦いで何度目になるか分からない間抜けな声を上げる。
「ちょっと待て孟徳!! 何をわけがわからんことを言ってるんだ!!! 兵の士気が乱れるだろうがっ!!!!」
夏侯惇がお決まりのように曹操へ怒鳴りつける。
 今回ばかりは夏侯淵も、その意見に賛成だった。
「殿、私も惇兄さんの意見に賛成です、何があるのか知りませんが、今ここで無理やり退却するのはいたずらに兵の士気を削ぐだけだと思われます」
曹操は黙って二人の意見を聞いていたが
「やれやれ、二人とも三点減点だ」
といって肩をすくめる。
「じゃあどういうことだ!? 説明しろ!!」
「……」
夏侯惇はさらに曹操へ怒鳴りつけるが、曹操は涼しげな表情のままさらに付け加えた。
「惇はもう少し“冷静さ”を、淵はもう少し“臆病さ”を身につけるべきだね」
「なんだと?! どういう意味だ?!」
「自分で考えたまえ、そして命令に変更はない!」
曹操はそれだけ言うと、すでに馬首をもと着た道へ返していた。
「おい!! 馬鹿孟徳!!!」
「惇兄さん、ここは殿の言う通りにしましょう」
さらに怒鳴ろうとする夏侯惇を、夏侯淵が押さえた。
「だが!」
「私たちには不可解なことでも、殿はいつも先を見つめている……あの人が今まで無駄な命令をしたことなどないはずです」
「むぐ」
確かに、と呟きながら夏侯惇は口をつぐんだ。
「しかしアホな命令は腐るほどしてるぞ……」
「それは忘れましょう」
「……ううむ」
しばらくの沈黙の後、夏侯淵は再び口を開く。
「考えていても仕方ないです、私が殿軍で敵の追撃を防ぎますから、惇兄さんは殿の下でお願いします」
「……わかった」
夏侯惇も仕方なくうなずき、未だ乱れている曹操軍へ声を上げた。
「退却だ!! 後ろは淵が守る!!! 前だけを見て駆け抜けろ!!!」
調練に調練を重ねた曹操軍、乱れた動きをすぐに正して命令どおりに退却を始めた。

「くっ!!」
曹操軍の退却を見て、李儒は苦虫を噛み潰したような表情をしている。
「どこまでこちらの予定を狂わせたら気が済むのか!!!」
忌々しげにそう言って、しかし李儒は思考を乱れさせることはなかった。
「仕方がない!! 今だ!!!!」
そう言って近くに控えるものに合図を命じた。
太鼓が鳴る。そのときだった。

―ワァァァァァ!!!!!―

鬨の声が上がる。
李儒は最後の“奥の手”として崖の影にずっと伏せていた騎馬隊を動かした。
千五百ほどの騎馬隊は“呂”の旗を掲げている。
 無論、騎馬隊を率いているのは呂布ではない。
「我が名は高順!!! 連合軍よ!! 我が“陥陣営”に耐えられるかっ!!!!」

 

 

先頭で甲冑を纏った、立派な体躯の男が大声を上げる。
 高順……彼は董卓軍に仕える武将だが、いままで表舞台に出てきたことは無い。
理由は簡単だった。

“今まで彼と戦った者は誰一人として生き残っていないのだ”

彼が率いる部隊の猛攻はすさまじく、攻められたものは全てそれに飲み込まれる。

 それが高順の“陥陣営”だった。

そして今高順が率いる“呂”の旗を掲げた騎馬隊は、董卓が呂布へ与えた三千の騎馬隊の半数だった。
 呂布は、多くの部隊を率いることを嫌っていた。必要な調練だけして、最終的に呂布が虎牢関の守備に率いた数が千五百だった。
 李儒は余った千五百の騎馬隊を高順に預けて伏兵とすることで、いざというときの“奥の手”にしていたのだった。


 高順が指揮し、呂布に育てられた騎馬隊、わずか千五百でも脅威というには十分だった。

「は!?」
「な!!」
夏侯兄弟は声が出なかった。
曹操が退却を始めてすぐに、董卓軍の伏兵が現れたのだ。
「孟徳!! お前はこれが分かっていて」
「その通りだよ……董卓軍は兵数で勝っているのに、戦いでは私たちに押されていた、私たちを誘い込むかのようにね。ならば伏兵を警戒するのは当然のことだよ……まぁ君に“冷静さ”が……淵に“臆病さ”があれば見抜けたものだよ」
馬を走らせながら、曹操は様になる動作で髪を掻き揚げる。
「しかし、私も簡単に負けるつもりは無いよ」
その顔は不敵な笑みを浮かべている。そしてその瞳は退却するさらに先を見つめているようだった。

―ガガガガガガガガガッ―

もう少しで虎牢関に戻る。
「ふむ」
曹操は不適に笑う。
「なんだ?」
夏侯惇は首をかしげる。
「いや、命がけで呂布を止めてくれていた劉備君になんと謝ろうかと思ってね」
曹操は軽口でそんなことを呟く。
「アホか! そんなこと言ってる場合では無いだろう!!」
高順の追撃はすさまじく、夏侯淵がいなければ曹操軍はとっくに全滅していただろう、と夏侯惇は考えていた。
千五百の高順の後ろに董卓の本隊二万。
『逃げ切れるか……』
全くもって不本意だが、夏侯惇はそれだけを考えて
『絶対に逃げ切ってやる!』
そう思い続けていた。

「はぁぁ!!!」
張遼の薙刀が横一文字に振るわれる。
「ふ!!」
孫堅は体勢を崩すことなく薙刀を弾き、反撃してくる。
『さすがに強い!!』
張遼は馬を駆りながら考えていた。
後ろに控えている孫堅軍千ほどはいまだに主の一騎打ちを見守っている。
『何のつもりだ?!』
張遼には分からなかった。
 今孫堅軍千が一気に攻めてきたら、張遼は首をとられることを覚悟で特攻するつもりだった。
しかしいつまでたっても攻めてこない。
それがかえって不気味で、張遼は孫堅との一騎打ちを続けている。
『しかし早くせねば!!』
時間がかかればかかるほど、本陣急襲は難しくなる。
『仕方あるまい!!』
張遼はそう考えて孫堅へ突っ込む。
「!!」
孫堅は張遼へ剣を振り下ろす。

―ガキン!!―

張遼は薙刀で一撃を受け止める。
そして
「ッ!!」

―ガクン!!―

多少無理な体勢で孫堅の攻撃を逸らす。
「!!」
大きく攻撃を逸らされ、孫堅の顔が険しくなる。
「御首頂戴仕る!!!!」
張遼は振り切った薙刀を返すことなく手から放り出すと、腰の剣を抜き放った。

―シャン―

澄んだ音が響き、孫堅の首めがけて白刃がきらめく。
だが
「!!」
孫堅も逸らされた剣を迷うことなく手から離し

―ガクッ―

崩れ落ちるように馬から下りた。
「!!」
完全に予想外の孫堅の行動に張遼の剣はむなしく空を切った。

―ドサッ―

馬から落ちた孫堅は数回転がるとすぐに起き上がって身構える。
「とっさの判断誠に見事!! しかし自らの兵の前で主が馬から落ちるとは、格好の付くものではありませぬぞ!!」
張遼にそういわれても、孫堅は動じなかった。
「私のせいで何人もの兵が死んできた、今更兵たち相手に格好などつけんさ……格好を気にするよりも、私は生きて、自分の兵たちに“勝ち”を味合わせてやりたいだけだ」
「なるほど……さすがは江東の虎!!」
張遼はそう言いながら馬を駆った。
「しかし次に続かねば意味は無いですぞ!!!」
「……確かにな」
馬上から武器を持たない孫堅めがけて剣を振り下ろす。
 孫堅はその刃から逃げるすべを持ち合わせていない、しかし、彼の瞳は死んでいなかった。
 主君を守るために何本か矢が飛んできたが、張遼は軽く払い落とした。
「終わりはあっけないものでしたな、覚悟!!!」
張遼はそう言って、武器を持たぬ孫堅へ刃を振り下ろそうとした。
 その時だった

―ガッ―

「?!」
張遼の跨っていた馬が突然崩れ落ちる。
「……?」
孫堅も予想外の事態に声を出せずに固まっている。
「い、一体?!」
馬から飛び降り、張遼は改めて馬の様子を見る。

―ドサッ―

馬がその場に崩れ落ちる。よく見れば脚に傷を受けている。
「いつの間に……」
呟きながら孫堅へ視線を向けるが、孫堅も予想外の事態に驚いている。
『どう言うわけだ?』
そう思いながら脚の傷口をよく見てみる。
 限りなく鋭利なもので切られたその傷口。そのため馬も限界になるまで傷に気がつかなかったようだ。剣でそのような傷を与えられるとは思えない。
「!!」
そのとき張遼の脳裏を掠めたものがあった。
 そう、つい先ほどまで張遼が刃を交えていた男が持っていた刃。
限りなく美しい装飾が施された……。
「……青龍刀」
張遼は小さく呟いた。
 関羽という男を完全に相手を翻弄していたつもりで、自分は馬への一撃に全く気がつかなかった。
自らの未熟さに嫌気がさした。
ふと気がつくと、孫堅が落とした剣を拾い上げている。
「……」
張遼は小さくため息をつく。
「一気に形勢逆転ですな……」
張遼はそう言うと、地面に剣を突き刺す。
「馬を失った拙者に本陣を攻撃するのは無理……ここで潔く果てるのが武人というものでしょう。孫堅殿……切られるがよい」
張遼はそう言ってまぶたを閉じる。
「勘違いをするな」
そんな張遼へ、孫堅が言った。
「確かに私は無頼の徒……生きるためにはどんなことでもやってみせよう……」
「……」
「しかし、自らの誇りを汚すような真似だけは出来るはずがなかろう」
そう言って孫堅は剣を鞘に納める。
「少なくともこの場の戦いにおいては私は君を討ち取る資格は無い。そしてこのような形で殺すには君は誠に惜しい武将だ……今回は大互いにおとなしく引き下がることにしよう」
そう言って孫堅軍千に合図を出す。


 孫堅軍は無駄のない動きで後ろへ下がっていく。
「ここまでくることが出来たのだ、馬があれば再び帰る事もできよう」
孫堅は張遼へ背を向けながら続ける。
「私の馬を使うがいい」
「……」
張遼は絶句している。
「この勝負はまたの機会に……いずれ決着をつけることを楽しみにしている」
「……礼は言いませぬぞ」
張遼は孫堅の馬の手綱を握りながら呟いた。
「しかし……いつの日か必ず、このご恩はお返ししよう」
「楽しみにしていよう」
最後に交わした言葉はひどく簡単なものだった。
張遼は孫堅の馬に飛び乗ると、颯爽ともと着た道を走り去っていった。

「袁術殿……無事で何よりだ」
張遼の強襲にあい、戦うこともなく逃げ出していた袁術の元に、孫堅が戻ってきて拝礼をした。
「な、なぜここに……貴公は水関を攻めていたはず」
袁術はやっとのことで声を絞り出した。
「あらかじめ出していた斥候の話によれば、水関に新たに配置された董卓軍の武将は関を閉じたまま全く戦う気がなかったようでして」
孫堅はゆっくりと語りだした。
「それなら我が軍の少なさで攻めても落とすことは難しいと思いました……。だから水関の攻撃は私の武将に任せ、私本人は兵千を率いてこちらに戻ってきたというわけですが……袁術殿の危機に駆けつけられてよかったです」
「……」
袁術は明らかにおびえている。
震えたままやがて口を開いた。
「そ、孫堅殿……水関の兵糧の件なのだが……わしは……」
「もう、よいのです」
袁術の言葉をさえぎり、孫堅がはっきりと言い放った。
「……」
孫堅はそれきり何も言わなくなった。
 袁術も孫堅の瞳に“負”の感情を見出すことが出来ず、ただ押し黙ってしまった。


―ワァァァァァ―

「今度はなんだ?!」
関羽が抜けたことで、呂布を張飛と二人で相手にしていた劉備だが、虎牢関から上がった鬨の声に再びそちらへ目を向ける。

―ダダダダダダッ―

見れば恐ろしい勢いで、虎牢関から「曹」の旗を掲げた軍が飛び出してきた。
「曹操の軍だぞありゃあ!!」
張飛が大声で叫ぶ。
「董卓を討ち取ったのか?!」
劉備がそう言って目を凝らす。先頭を走る曹操の姿が確認できた。
「おーい、曹操サンよぉ!!」
「すまないね劉備君!! しくじったよハハハハ!!!!」
劉備の方へ馬を走らせながら、曹操はよく通る声で言った。
「なんだとてめー!!!!」
無論それに声を上げたのは張飛だった。
「いやー、さすが董卓君だ!! 思わぬところに伏兵を隠していてね」
さらに劉備へ近づきながら、曹操は説明を続ける。
「というわけで今、すぐそこに董卓軍の本体二万と伏兵の精鋭千五百が近づいている!! 君たちも逃げたまえ!!!」
「おいおいおいおいぃぃぃぃぃ!!!!」
劉備は馬にも跨らず走り続けていた疲れも忘れて、後ろのほうで周りの董卓軍を相手にしていた自分の兵に声を上げた。
「退却ッ!!!」
「ちっくしょー!!!!」
張飛も仕方なく馬を走らせ、劉備も自分の足で走り出す。
 その隙を逃す呂布ではなかった。

―ブゥゥゥゥゥゥゥン―

方天画戟がうなりを上げて劉備へ向けて振り下ろされる。誰もが劉備がやられると思った。
「あっはっは!! 無駄無駄!!!」
しかし、絶体絶命の状態だというのに、劉備は笑っていた。

―ガキン―

「!!」
当然のように呂布の方天画戟をはじいたのは青龍刀。
「あっはっは!! ギリギリだぜ関羽!!!」
「申し訳ございません!!」
張遼のもとからはなれていた関羽は、間一髪のところで劉備のところへ舞い戻っていた。
「まぁいい!! とりあえず引くぞ!!」
「御意!!」
関羽は劉備の言葉にうなずき、馬上へ劉備を引き上げる。
「じゃあな呂布!! また逢おうぜ!!!」
関羽の馬に乗りながら、劉備は呂布へ向けてそんなことを言っていた。

また“戦おう”ではなく“逢おう”と劉備は言った。

その言葉が、呂布には妙に引っかかった。

「いやー、人間必死になれば何でもできるものだね?」
ようやく関の外に逃げ出した曹操は、夏侯惇にむかってそんなことを言っていた。
「まだ安心するのは早いぞ孟徳!! 後ろ……」
「うおおおおおおおおお!!!!!!」
夏侯惇の言葉が終わるよりも前に、虎牢関から全てを蹂躙する騎馬隊の声が聞こえてきた。
「ホラ見ろ!! まだ逃げ切れてないぞ!!!」
夏侯惇がそう言って舌打ちをしたときだった。
「いいや、ここまで来れば大丈夫だよ」
曹操は自信たっぷりの表情でそう言っていた。
「?」
夏侯惇にはもちろん、殿軍の夏侯淵がこの場にいても何のことかわからなかっただろう。
 しかし曹操は、迷うことなく近くのものへ合図を送った。

―バサバサッ―

騎上の兵が紅い旗を大きく振る。
「おおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!」

その時、またしても鬨の声が上がった。

「?!!」
殿軍の夏侯淵は突如上がった鬨の声に身構える。
『まだどこかに敵が?』
そう思ったのも束の間、関の両側から五百ずつ、合わせて千ほどの歩兵隊が現れた。
「あれは?!」
夏侯淵は、敵だと思っていたその兵、というより五百ずつを率いる将に見覚えがあった。
 そう、それは敵などではなく
「殿!! この曹洪!! 殿の合図を心待ちにしておりましたぞ!!!」
「孟徳殿!! この曹仁が着たからにはご安心を!!!」
曹洪と曹仁、共に曹操の従弟で、夏侯兄弟と同じく曹操挙兵時からの武将だった。
 二人とも武将としての実力は折り紙つきで、この上なく頼りになる味方だった。
曹洪と曹仁の率いる歩兵隊は長槍と柵を駆使し、董卓軍の騎馬の動きを妨害していく。
関の入り口は決して大きくないので、出るときは二万の大軍もその兵数を生かせず、董卓軍は完全に混乱していた。
「なるほど……だから殿は」
夏侯淵はようやく気がついた自分を恥じた。
「やはり殿に間違いなどなかったということですか……ここまで先を見通すとは、素晴らしい」

「な!! あいつらいつの間にあんなところに隠れてたんだ」
曹洪と曹仁の突然の登場に驚きながら、夏侯惇が声を上げる。
「しばらくしたら彼らも下がるように言ってある、これで完璧な退却だよ♪」
曹操は不敵な笑みを崩すことなく言った。
 そして後ろを振り返り、曹操は董卓軍全体へ向かって凛とした声を上げる。
「董卓君“切り札”は最後まで取っておくものだよ!!!!」
戦場に響き渡ったその声に、李儒が改めて忌々しげな顔をした。


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