〜虎牢関の戦い・後編〜

最終話「決着」

「ちぃっ!!」
曹操の声を聞き、李儒は忌々しげに舌打ちをする。
「まさかここまで周到な用兵をするとは……」
それほどまでに、曹操の用兵は李儒の予想を遥かに超えたものだった。
 今董卓軍は門の周辺で新たに現れた曹操軍の歩兵千との乱戦状態になっている。これでは董卓軍の真骨頂、騎馬隊を全く生かすことが出来ない。
「何を気にしている……」
静かに呟いたのは董卓だった。
「あの男は確かに予想外の行動を繰り返しているが……何か問題か?」
確かに、董卓の言うとおりだった。
 董卓軍は虎牢関から曹操軍を追い出し、一度戦を仕切りなおすことで洛陽に戻り、すぐに遷都をすればいい。高順を使ってあわよくば曹操を討ち取ろうと考えたが、それは絶対にやらなければいけないことではない。
 連合軍が再び攻めてきたときには遷都は終わり、守りにくい洛陽は火に包まれ灰塵と化し、自分たちは要害の地である長安に移っている。
 問題など何もなかった。
「申し訳ありません、董相国……」
「かまわん……」
董卓は短くそういっただけだった。
「ならばもうここに用は無い、引くぞ」
董卓は何の未練もなくそう呟いた。

 董卓軍の本陣から退却の鼓がならされる。
「?!」
董卓軍の兵士たちは虎牢関の中へと駆け戻っていく。
「今だ!! 全軍反転!! 董卓を逃がすな!!」
曹操がすぐに反転して攻勢に出ようとしたが
「呂布!」
「……」
董卓の呼びかけに呂布が動いた。
 方天画戟を振るい、董卓軍の追撃に移ろうとする兵士たちを次々と殺していく。
「ひるむな!! 進め!!!」
曹操の声が響いても、呂布の圧力の前に兵たちの士気は完全に削がれ、兵たちは思うように動かなかった。
「仕方がない!! 私たちも行くぞ!!!」
曹操が夏侯兄弟たちと再び進撃しようとしたときだった。

―ダダダダダダダダダダッ!!!―

連合軍の本陣から伝令が飛んできた。
「ほ、本陣が強襲されました!!!」
「何?!」
その言葉に連合軍全体を緊張が走った。

―連合軍本陣―

「ど、どうなっているんだ!!!!」
袁紹は自らの部下と共に死に物狂いで逃げていた。
 呂布に散々に追い散らされ、公孫サンを使って本陣まで戻ってきたまではよかった。
 本陣を一点に狙ってきた将は袁術が追い返したと聞くし、ひそかに本陣を狙っていた少数の部隊も公孫サンが撃破したと聞いた。
 兵数で完全に有利にたち、敵の策を全て潰し、後は虎牢関へ全軍を殺到させるだけだった。
しかし、いざ全軍へ号令を発しようとしたときだった。

―オォォォォォォォォォォォォォォ!!!!!!―

「?!」
今までどこに潜んでいたのか、本陣の横合いから五千ほどの騎馬隊が連合軍本陣めがけて突っ込んできた。
 先頭の武将は周りの将たちには目もくれずに、袁紹一人を狙っていた。
「連合軍盟主・袁紹!!! その首を胴から離すのは今だぞ!!!!」
「な!!!!」
突然の伏兵になすすべもなく、袁紹はさらに奥へと退却してしまった。

「どこの隊だね?!」
完全に予想外の本陣奇襲に、曹操の表情から余裕が消えていた。
 伝令も早口で答えた。
「は、突如現れた董卓軍は“張”の旗を掲げておりました!! おそらくは董卓軍の武将・張済の軍と思われます」
「張済?!」
聞いたことがあった。一見すると愚鈍な男なのだが、それは他の者を欺くためで、その身には勇猛な力を蓄えているという。
「董卓君はそんな武将をまだ隠していたのか」
虎牢関に目をやると、呂布の後ろに控えていた董卓が口を動かしていた。

「“切り札は最後まで取っておくもの”……か、全くもって同感だ」

決して聞こえなかったが、言葉は確かに届いていた。

曹操を初めて見た賈クが呟いた言葉。

“軍を率いるものとしても武を振るうものとしても董卓様にはわずかにおよばぬ”

そう、賈クは確かに「いつか」曹操が董卓を超えると言った。
 しかし、それは「今」ではなかった。
最後の最後で、曹操は董卓に負けていた。


「……」
伝令の言葉に、李儒は驚きを隠せなかった。
「董相国……これは一体?」
自分はこのような伏兵がいるなど聞かされてはいなかった。
「さあな……俺は賈クに任せただけだ」
董卓はただそう呟いた。
「賈ク……」
その名を聞いた李儒の体にたとえようのない戦慄が走る。

「ククク……もうそろそろ、張済殿が動いたころか」
荒野に馬を走らせながら、賈クは一度だけ振り返る。
「曹操……予想していたか? していなかっただろうな」
賈クは暗い笑みを浮かべている。
「李儒に気を取られすぎたようだな……董卓軍にあるのは『毒』だけではない……」
賈クは再び前に進みながら呟いた。
「果てしなき『闇』も潜んでいるということだ……」
最後に呟いたのは、たった一言。
「今回は……俺の勝ちだ」
曹操には届かなかったが、賈クにはそんな事はどうでもよかった。

 李儒はじっと考え込んでいる。
賈ク……軍内で『闇の軍師』などといわれているが、今までの戦ではたいした活躍などしていなかった。

しかし、自分の策をことごとく看破した曹操さえも完全に出し抜いた最後の策は、ほかならぬ賈クのものだという。
『いつか……あの男は我々の邪魔になる』
李儒はただそれを覚った。
「深く考えるな……邪魔になるようならば消せばいいだけだ」
「?!」
緊迫した表情の李儒に、全てを見透かす瞳をした董卓が呟いた。
「もう良いだろう、戻るぞ李儒」
李儒は改めて自らが仕える男の大きさを思い知らされた。
「はは、仰せのままに……」
董卓に深く拝礼をすると、李儒は残りの董卓軍にむかって声を上げた。
「全軍退却!!! すぐに虎牢関へ引き返すのだ!!!!」
「……」
その言葉と同時に、呂布もゆっくりと動き出す。
 悠々と赤兎の足を進めていた呂布が虎牢関に到達したころには、董卓軍のほぼ全てが退却していた。
「……」
呂布は一度だけ振り返る。
 曹操、劉備、それぞれの率いる将……。
それらを順番に眺めると、呂布は虎牢関の門をくぐった。

―ブゥン!!!―

―ドガァァン!!!―

門をくぐりきると、呂布は方天画戟を振るった。
「!!!!!!!!」

―ビシビシィィッ!!!!!!―

「!!!!!!!!!」
方天画戟の一撃を受けた門に大きな亀裂が入る。

―ブォォォン!!!!!!!―

呂布はもう一度方天画戟を振るった。

―ドガドガァァァン!!!!!!!―

亀裂が門全体に広がり、大きな音を立てて虎牢関が崩れ去った。崩れた紋に董卓軍の姿は隠れてしまった。
「……」
それを見せられた連合軍はただ息を飲むばかりだった。
瓦礫と化した虎牢関を越えていくのは曹難しいことでは無い。
しかし、関を粉々に破壊した呂布を追いかけようと思うものなど、この場に一人もいなかった。
「……全軍、一度本陣へ戻ろう」
曹操が、むなしく言った。


「……」
連合軍本陣一点強襲を孫堅と関羽に阻まれた張遼は、戦場から遠くはなれたところにいた。
 頭の中を渦巻くのは先の戦の事ばかりだ。
「どうしても……忘れられぬ」
張遼が小さく呟く。
 今まで戦が終わり、殺した者への黙祷をささげると、張遼は戦のことを綺麗に忘れていた。
 しかし、今回の戦はどれほど時がたとうとも忘れられるようなものではなかった。
 呂布、孫堅……そして関羽。多くの武人が頭から離れない
「拙者もまだまだ未熟だということか……」
小さく呟き、張遼は空を見上げる。
多くの忘れられない出来事、その中でもひときわ強い光を放ち続けるもの。

―どこまでも美しかった青龍刀―

張遼はその美しさに完全に魅了されていた。
「拙者はまだ……まだまだ強くならねばならん」
ただ一人の誓いを胸に秘め、張遼は董卓軍から姿を消した。

 連合軍が本陣に戻ってからそれほどの間をおかずに、董卓軍が長安への遷都を画策しているという伝令が届いた。


「本初、今ならまだ間に合う! 董卓を追撃しよう!!」
連合軍の本陣で、曹操は袁紹に向かって言った。
「……」
袁紹は顔をうつむけ、黙っている。
「どうしたのだね? 本初、君らしくないぞ」
「……んだ」
「何?」
袁紹の消え入りそうな声に、曹操は首をかしげた。
「こ……怖いんだ……怖くて仕方がないんだ」
袁紹はやっとのことで声を絞り出していた。よく見ればその肩が小刻みに震えている。
「今まで名門・袁家の者として何不自由ない暮らしを続け、自分にできないことなど何もないと思っていた」
「……」
「しかし実際はどうだ?! 威勢よく先陣を切ったいいが、呂布におびえて本陣に引きこもり、挙句にその本陣を強襲されて散々な目にあって逃げていた……なんて、無様だ」
曹操が地面を見ると、袁紹が涙を流していた。
 袁紹は流した涙をぬぐうことなく顔を上げる。
「今でも覚えているんだ……呂布の戟が体のすぐ横を貫いたときの圧力を……そして敵がすぐ後ろに迫ったときの恐怖を……どうしてもわすれられないんだ」
「そうか」
「すまない孟徳、私ごときに連合軍の盟主など荷が重すぎたのだ、お前や劉備殿の活躍を見ていてそう思った」
そうして袁紹は口を閉ざしてしまった。
「十分だ」
曹操が口を開いた。
「本初、その恐怖を心に刻み付けたまえ……そして常にその恐怖を忘れないことだよ」
「……」
「これが“戦い”というものだ」
戦いの厳しさを袁紹に教える。曹操が袁紹を炊きつけ、あえて先陣を切らせた理由だった。
「昔なじみのよしみだ……もう一押し、背中を押そう」
「何?」
袁紹が再び曹操に目をやったとき、曹操は馬上にいた。
「行くぞ、董卓を追撃する!!!」

―ウオォォォォォォォォォ!!!!!!―

今までじっと控えていたのか、曹操の号令に夏侯兄弟を先頭にした彼の軍が立ち上がった。
「む、無茶だ孟徳!! わずか五千の兵でどうやって追撃をかけるというのだ!!!」
止めようとする袁紹に、曹操は言った。
「ここで死ねば、私はそれまでの男ということ、しかし私は死なないよ?」
「……?」
「この乱世の“覇者”だからね」
「!!」
虎牢関で負けた。おそらくこの追撃戦でも負けるだろう。
 しかし曹操の瞳は、決して曇ってはいなかった。
ただ自らの『展』を信じ、どこまでも『天』を見つめていた。

「お待ちください」
連合軍本陣を離れ、今にも疾風の進軍を持って董卓軍を追撃しようとしたときだ。
突然現れた一人の青年が、曹操を呼び止めた。
「君は?」
まだ若い、体つきを見る限りは武官ではなく文官だった。服の上に申し訳程度の薄い鎧を纏っているだけだった。
 一見すると女性と見紛うばかりの美しき容姿をしたその男は、曹操に拝礼をしながら名乗った。

 


「私の名は荀イク、字は文若と申します……今は袁紹殿の下に身を置かせて頂いています」
顔に似合った、美しい声を響かせて荀イクは頭を下げる。
「聞いたことがある……『王佐の才』を持つとまで称された荀イク君だね?」
「自らを誇るようで気が引けますが、おそらく合っております」
荀イクはゆっくりと頭を上げながらそういった。
「それで、その荀イク君が私に何か用かね?」
曹操の言葉に、荀イクは待っていたとばかりに口を開いた。
「願わくば……私を董卓追撃の軍に加えていただきたいのです」
「何?!」
荀イクの言葉に、夏侯兄弟をはじめとした曹操軍全員が息を呑む。
「本気かね?」
「冗談で“負け戦”に参加するなどと申しません」
「なんだと!!」
荀イクの遠慮のない物言いに夏侯惇が声を荒げる。曹操は夏侯惇を制しながら言った。
「負けると分かっているのに付いてくるのかね?」
「あなた様がご同行を許してくださるのなら……」
「死ぬかもしれないのだよ?」
曹操はまっすぐ荀イクを見つめていった。
荀イクもまっすぐ曹操を見つめ返して答える。
「失礼ながら……先ほどの袁紹殿との話を聞かせていただきました。その時……あなた様はこういいました」
「何かね?」
「自分は死なない……なぜなら私は“覇者”だから……と」
「うん、言ったね」
曹操はうなずく。
荀イクはさらに視線に力を込め、付け加える。
「ならばです……」
「?」
「“覇者”を支えることになる私もまた……決して死ぬことはありません」
「ほう……」
荀イクの言葉に、曹操は感心したように吐息を漏らす。
「それは……私の元に来るというのかね?」
「あなた様がそれをお許しになるのでしたら……」
荀イクはそう言いながら頭を下げた。
「……」
曹操はあごに手を当てて考えるそぶりをしていたが、顔は少しも迷っていなかった。
「一つだけ聞こう……袁紹ではなく私を選んだ理由は?」
荀イクは迷いのない瞳で答えた。
「先ほども申しました……私の支えるべき“覇者”はあなた様だと分かるからです」
「思うや、感じるのではなく、分かる……のかね?」
「はい……」
荀イクのうなずきをみると、曹操は口元に笑みを浮かべて呟いた。
「分かった……荀イク、共に来たまえ」
そう言って右手を差し出す。
荀イクはその手をゆっくりと握り返す。
「荀イク……もう一つ問おう。私が覇者……高祖・劉邦ならば……君は?」
荀イクはすかさず答えた。
「あなた様が高祖ならば、私は……あなたの子房(劉邦の軍師・張良の字)となりましょう……」
荀イクの瞳に、やはり迷いなどはなかった。

 袁術が孫堅の幕舎を訪れた。
「これは袁術殿、一体どうされたのだ?」
孫堅はただ一人で袁術を迎え入れた。
「……」
袁術は黙っていたが、突然床に手をつけ、声を上げた。
「私はなんと愚かだったのか!! すまない!! すまない……」
「水関の事ですか?」
孫堅の言葉に袁術はうなずく。
「緒戦での貴公の猛攻を見て、私はただ貴公の力を恐れた……このまま放って置けばいずれ自分に害をなすと思い込んで」
「兵糧を断った理由はそれですか」
再び袁術がうなずく。
「本当なら水関の戦いが終わった時点でわしは貴公に斬られていたはずだった……貴公の勇猛な武将を死なせ、貴公自身もあと一歩のところで殺されるところだったのだから」
袁術が地面に額を打ち付ける。
「虎牢関で張遼という猛将が突撃してきたとき、わしはなすすべもなく逃げるしかなかった……貴公はそのわしを救ってくれた……恨むべき対象のはずなのに」
「……」
「張遼の刃からわしを守ろうとして死んでいったものがいる……自分のために死んだものがいるという事実は、とてもわしに耐えられるものではなかった。そこではじめて後悔した、貴公にこんなにつらい思いをさせていたと……」
袁術は地面に額を打ちつけ続けている。額から血が流れるのもかまわず。
「わしは自分の愚かさを思い知らされた!! すまぬ孫堅殿!! どうかわしを斬って……」
「もう、よいのです」
孫堅が袁術の言葉をさえぎる。
「過ぎたことです……お決まりの言葉で言わせていただければ、袁術殿を斬ったところで私の武将が戻るわけではない……」
「しかし、それならわしはどうやって貴公に報いれば……」
「未来……です」
またしても袁術の言葉をさえぎり、孫堅が言った。
「み、未来?」
「そうです……何も私の借りを私に返す必要は無いでしょう。私には息子がいる、臣下がいる……もし私に何かあった時、借りを返してくださればよい」
「う……」
袁術は、何も言えなかった。
 ただ、もう一度だけ頭を下げた。

「常龍児……もう行ってしまうのか?」
公孫サンは、一人放浪の旅に出るという槍使い・常龍児に声をかける。
「はい、袁紹殿の元を離れる以上、また新たな君主を探して諸国を回るつもりです」
常龍児は涼しげな空気を崩すことなく答える。
「ならばもう少しだけ待ってはもらえぬか? ぜひ引き合わせたい人物がいるのだ」
「お断りしましょう」
常龍児は公孫サンにきっぱりと言い放った。
「引き合わせたいものとは『劉備玄徳』のことでしょう?」
「あ……うむ、彼を知っていたのか」
戸惑う公孫サンに、常龍児はさらにはっきりとした口調で言った。
「正直に言いましょう、俺はあの男が嫌いです」
「え?」
わけが分からない、という表情で公孫サンは黙ってしまう。
「何故か……というのはあえて語りますまい」
常龍児はそう言いながら、公孫サンへ背を向ける。
「それでは、俺はこのあたりで失礼します。短い間でしたが、公孫サン殿との共闘はなかなか楽しかった……また何かめぐり合わせがあるようなら……そのときはよろしくお願いします」
それだけ言い終えると、常龍児は何のためらいもなくその場を後にした。
「本当に、涼しげな風のような男だな……」
公孫サンはただそう呟いた。


「おいてめー!! それは俺の酒だ!!」
「馬鹿かお前!! 名前なんか書いてねーだろ!!」
「じゃあてめーの名前は書いてんのか馬鹿兄貴!!」
「よくみやがれ!! ここにちゃんと「玄徳」って書いてんだろ馬鹿!!」
「あ、てめ!! いつの間に書きやがった」
公孫サンの耳に、幕舎の中のそんな喧騒が響いてくる。
 追い出されたのか逃げてきたのか、幕舎の中から劉備が出てくる。
「んぁ? んなとこで何やってんだ? 伯佳サンよぉ」
劉備はそう言いながら公孫サンへ酒を差し出す。
「いや、少しな」
杯を受け取りながら公孫サンは呟いた。
「にしても、見事なまでの負けだったなぁ」
劉備が呟く。
「あぁ」
公孫サンもそれにうなずく。
「董卓を五千で追撃に行った曹操殿はどうなっているだろうな?」
「そのうち負けて帰ってくるだろ」
公孫サンの問いに、劉備はまったく間をいおかずに返す。
「そうか……」
「どう考えても勝てねーだろ?」
「いや、そうではない」
「ん?」
公孫サンの否定の言葉に、劉備は首をかしげる。
「劉備殿は曹操殿がここに帰ってくると思うのか?」
正直な話、公孫サンは曹操が生きて帰ってくることは無いと思っていた。しかし劉備は何の迷いもなく曹操が“戻ってくる”といった。
「あぁ、曹操サンは戻ってくるぜ……絶対だ」
「そうか……それもそうだな」
劉備が自信満々に言い切るので、公孫サンも同意するしかなかった。
「それにしても無謀としか思えない……何がそこまで曹操殿を突き動かすと言うのだろうか?」
「“天”だな、きっと」
またしても劉備は間をおかずに答える。
「天?」
「曹操サンは常に“展”をもって“天”を見ている。だからきっと“天”がどこまでもあの人を動かすんだろうな」
「劉備殿も“天”を?」
「……あー」
今度の問いに、劉備はすぐに答えなかった。
「いや、俺は違うな」
少し考えるしぐさをした後、劉備は言った。
「俺が見てるのはあくまで“人”の道だ、曹操サンとは全く違う道を歩いてる……目指してるものは一緒だけどな、多分」
「なるほど……」
「あんたはどうなんだ? 伯佳サン」
言われて、公孫サンは答えに詰まる。
「私は……何を見て、何処を目指しているのだろうか?」
そんな言葉しか出てこなかった。
「はっはっは、昔っからのあんたの悪い癖だな。自分の中で答えが“完璧”に固まらないと決して何も言わない」
「……むぅ」
「もう少し適当になっても良いんじゃねえか? よく先生のとこで一緒に勉強サボって遊んでただろ? あん時のことを思い出してみろよ!!」
あっはっはと笑いながら、劉備はその場を後にしようとする。
「確かにそうだな」
公孫サンは呟き、背を向けている劉備に声をかけた。
「君はこれからどうするんだ?」
「あー、それが何も考えてねぇ」
劉備らしい、と公孫サンは思った。
「もしよかったら、私の元で“客将”としてしばらくとどまらないか?」
常龍児にはいえなかったことが、自然と口から出てきていた。
「劉備殿といると、私は少し“適当”になれる気がするんだ」
「ははっ、褒めてねぇじゃねえか」
「そうだな」
今となっては身分もずいぶん違うはずだった。
 それでも公孫サンは、劉備と昔のように語りたかった。

「兄者……戻られましたか」
幕舎に戻ってきた劉備に、関羽が声をかける。
「馬鹿はどこ行ったんだ?」
幕舎から張飛の姿が消えていることに気がついた劉備が問う。
「呂布を討ち取れなかったのがよほど悔しかったのでしょう、今は外で蛇矛を振り回しています」
関羽がそう言って笑う。
「はは、あいつらしいな」
劉備も笑う。
「しかし……この戦いに参加してよかったです」
不意に関羽が切り出した。
「この世の中に、多くの人がいることを思い知らされました」
「確かにな……でもよぉ」
「?」
劉備の微妙な言い回しに、関羽は首をかしげる。
「お前と張飛の二人に、お前が思ったことと全く同じことを思ったやつもかなりいるぜ?」
「……」
劉備はにっこりと笑って言う。
「つーわけだ、俺たちは行ける!」
「そうですな」
お互いにそう言って、しばらく間をおいたあと
「「いつになることか分からないが……」」
劉備と関羽の言葉が重なった。
二人は顔を見合わせて笑うしかなかった。

こうして、さまざまな群雄の入り乱れる連合軍と董卓軍の戦いは静かに幕を引いた。

「牛輔……屋敷に戻る前に寄り道をします」
今まさに洛陽に帰ってきたというところで、董白が輿の中から呟いた。
「寄り道? どちらへ」
「すぐに着きます」
そう言いながら、牛輔率いる董卓軍は董白の言う方向に輿を進めていった。
「着きました、輿を止めなさい」
「ここは……呂布殿の」
牛輔はあまりにも意外な目的地に間の抜けた声を上げてしまった。
 そう、董白が寄り道をするといって輿を止めたのは呂布が住む館の前だった。
董白は輿から降りると無遠慮に屋敷の中へ入っていく。
 牛輔も数人の部下を連れて後に続いた。


董白が迷うことなく歩を進めたのは、館の裏庭だった。
「?!」
そこには庭を走り回る少女と、それを見守る女性がいた。
「呂華……」
董白が小さく呼びかけた。
「!!」
董白の呼びかけに、庭を走り回っていた少女が勢いよく振り向いた。
年は董白よりもさらに三つ四つ下だろう、ゆるく波がかった癖毛に紅い瞳をした、かわいらしい少女だった。
「白!!」
少女は董白の姿を確認すると一目散に董白のもとへ走ってくる。

―ポフン―

勢いよく飛び込んできた少女・呂華を、董白は優しく抱きとめる。
「久しぶりですね、呂華」
「白〜♪」
董白がそう言って呂華へ微笑む。董白の腕の中に納まった呂華も、気持ちよさそうに顔を緩める。
「……」
その様子を見て、牛輔は開いた口がふさがらなかった。
先ほどまで戦場にて多くの武将を相手にひるむことなく舌を振るい。彼らを見下してきた邪悪な魔王の孫の姿はそこに無かった。
 ただ呂華という少女を優しく見守り、董白は年相応の少女として微笑んでいた。
「と、董白様……そちらの方は?」
牛輔は相変わらず間抜けな口調のまま、董白へ声をかけた。
「あなたにいちいち話すようなことではありません、黙ってそこに控えていなさい」
董白は口調こそ冷たいが、機嫌がいいのだろう。言葉に棘らしい物は全く含まれていなかった。


「私と呂布様の子・呂華です」
呆然と立ち尽くしていた牛輔へ、いつの間にここまで来ていたのか、呂華と共に庭にいた女性が声をかけた。
「で……では、あなた様は」
「呂布の妻です」
女性はそう言って頭を下げる。
「……」
牛輔はどうすればいいのか、ただおろおろとするばかりだった。
それほどまでに、呂布の妻・厳氏は美しかった。纏う雰囲気はどこか温和で、同じ空間にいるだけで安心できる、そんな女性だった。
「呂布殿のご息女と……董白様は……お知り合いだったのですか?」
牛輔の問いに厳氏はうなずく。
「はい、以前から董白様は、華雄様を護衛によくこちらへ参られました」
「そうだったのですか……」
そう呟いて、牛輔は再び董白と呂華へ目をやった。


「白〜」
まだ幼い呂華はうれしさを表す言葉を知らないのか、ただ董白の名を呼び続ける。
「会いたかったですよ、呂華」
そんな呂華を、董白は優しく抱きしめ続ける。
 董卓と父子の交わりを交わした呂布に娘が生まれたと聞いたとき、年の近い者が周りにいなかったこともあり、董白は『妹』が出来たことを素直に喜んだ。
 華雄に命じてよく呂華のもとへ行って同じ時を過ごした。呂華もよく董白になついた。
董卓に逆らうゴミを始末して気分が悪いときでも、呂華の顔を見ると何もかも癒された。

 今董白にとって、呂華は何よりも大切なものだった。

 

 

呂華を抱きしめ、その温かさを感じながら、董白は思う。
『この子のためなら……私は何だって出来るし、どこまでも残酷になれる』
だから早く、ここに来た目的を伝えなければいけない。
「呂華……よく聞いてください」
「ん?」
まっすぐに董白を見つめながら首をかしげる。
 そのしぐさひとつひとが愛おしい。
「悪い人間がこの洛陽に迫ってきています……だから、安全なところへ逃げましょう」
「ん」
おそらくわかってはいないだろう、しかし呂華ははっきりとうなずいた。
「いいお返事です、もうすぐ私のおじい様や、あなたのお父様も戻られます。ですから急いで、この家とお別れしましょう」
「ん」
「では、母君と用意をしていてくださいね、後で迎えに来ますから」
「白も……一緒?」
「……もちろんです、一緒に安全な場所へ行きましょう」
そう、少しでも早く呂華を安全な長安へ、董白が考えているのはそれだけだった。
「牛輔」
「は」
やっと声をかけられ、牛輔が短く返事をする。
「長安への遷都、私たちと共に呂華たちも連れて行きます」
「董卓様のご親族と呂布殿のご親族を真っ先に長安へ?」
「そうです、最大限の護衛をつけて……李儒には私から言ってあります」
「は……しかし」
「なんです?」
牛輔は言いにくそうに呟く。
「つい先ほどの伝令から、虎牢関から退却を始めた董相国たちを、曹操が追撃してきたと聞きます……援軍に行った方がいいのでは?」
「呂布、徐栄を筆頭にした武将に加え、兵数も何倍あると思っているのですか? 放って置いてもかまいません」
董白は迷い無く言い切る。
「そんなことよりも、早く館から出て輿の出発の準備を整えておきなさい……遷都はすぐにはじめるのですよ」
「は」
牛輔はそう言って部下たちと共に下がった。
董白は呂華から体を離し、厳氏へと向き直った。
「ということです、準備をお願いします」
「はい」
厳氏は温和な雰囲気を崩すことなくうなずく。
「ではまた後ほどに……」
董白はそう言って、自分に視線を向け続ける呂華を優しく見つめる。
「白〜」
「またあとで、迎えに来ますから」
董白は微笑んだ。
厳氏には分かっていた。
邪悪でもなく、狂気でもなく、可憐なだけでもなく……この優しい瞳こそが、董白の本当の素顔なのだと。

その後、曹操は董卓を追撃するが呂布と董卓軍の猛将・徐栄の急襲にあい敗北。反董卓連合軍は結局董卓を討ち取ることが出来なかった。
董卓によって洛陽は炎に包まれ、都に残ったのは逃げ遅れた民の死体と焼け焦げた建物の瓦礫だけだった。
 焦土と化した洛陽の復旧活動に当たっていた孫堅。彼は古井戸から、手にすると天下を取れるといわれる皇帝の証「伝国の玉璽」を発見し、それを本国へ持ち帰る。
 目的を失った連合軍の諸将もそれぞれの領地へと帰り、反董卓連合軍は分裂。
この時を境に、中国はそれぞれの思惑が交差する弱肉強食の世界へと移り変わっていった。


虎牢関の戦い・終


 

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