〜江東の小覇王〜
第1話「孫策、飛翔」
寿春――――
「……はぁぁぁ」
大地に寝転がり、空を眺めながら大きなため息をつく孫策。
「……はぁぁぁぁぁぁぁ〜」
再びため息、いつもは強い意志の炎を宿したその瞳も、今はだらしなく半目であった。
「俺……何してんだ?」
ポツリと呟いた問いに答えるものはいない。
今孫策は、家族とはなれ袁術のもとで一武将として仕えていた。
そのことに不便は無い。
「袁術の親父さんもよくしてくれているしなぁ……」
袁術が言うには彼は孫堅亡き後の孫策たちの面倒を見る義務があるらしく、今の孫策は、一武将とは思えないほど大切にされていた。
「でもよぉ……過保護すぎるぜ」
そう、袁術は孫策を可愛がるあまり、彼をあまり戦へ出すこともなく、自分の目の届かないところへ行くのを極度に嫌い、いつまでたっても太守に任命してもくれない。
「確かに早いとこ親父をなくしたし、心配してくれるのは本当にうれしいけどよぉ」
そろそろ自分も天下に向かって「飛躍」したいと考えていた。
しかし、今の自分にはそんなことはできない。
「親父の兵士もみんな袁術の親父さんとこにいるし……俺一人で何ができるっていうんだ」
吐き捨てるように言って、孫策はまぶたを閉じる。
「なんか……もうどうでもいーや」
そうだ、父には「孫家を任せろ」なんて大見得を切ったが、自分はそんな器ではなかったのだ。
「そうそう、このまま袁術の親父さんに仕えてりゃなにも不自由しねーし……もうこれでいいか……」
「っざけんなこの馬鹿者がぁっ!!」
「ぐおっ!」
勝手に自己完結してしまった孫策の耳にそんな叫び声が響く。
ついでに思いっきり腹を踏まれた気がする。
「ゲホゲホッ!! ゴホゲホッ!!」
容赦ない腹への攻撃に孫策は悶絶して転げまわる。
「ってぇ!! 誰だいきなり!!」
孫策は自分へ暴言と暴力を働いた主を探そうと起き上がりあたりを見渡す。
が
「……あ?」
きょろきょろと一回転して周囲を見渡したにもかかわらず、そこには誰も存在しなかった。
「なんだ? 幻覚か?」
「どこを見ておるかっ!!」
「ぎゃぁぁぁ!!」
またしても突然声が響き、今度は足を思いっきり踏まれた気がした。
「ぐおぉぉぉっ! いてぇぇっ!!」
今度は足を抱えて地面を転げまわる孫策。
「こっちじゃ馬鹿伯符!!」
「っ?!」
再び声を聞き、足を抱えたまま孫策は上半身を起こす。
「……」
「……」
そこにいたのは一人の少女。孫策が地面に座り込んだ状態でようやく目が合うほどの小さな少女。
先ほどは誰もいなかったわけではなく、ただ小さすぎて気がつかなかっただけのようだ。
「……」
「……」
目を合わせたまま固まる孫策と少女。
なんだかよく分からないが果てしなく不機嫌そうな少女。
しかし孫策は思う。
『ちょっとまて……このガキ……どっかでみたことあるような』
幼いくせに可愛さが微塵も感じられない半目の瞳。
少女のものとは思えない眉間のしわ。
果てしなく真一文字に引き結ばれた唇。
限りなく尊大な口調。
そして……
その半目の瞳から確かに漏れる意志の炎。
「って……おまえ、まさ、か」
孫策は信じられないと言った表情で、少女の名前を口にした。
「尚香……か?」
孫策の反応に満足したのだろう、少女は不機嫌そうな顔を崩すことはなく、その薄い胸を誇らしげに張ると
「ようやく気がついたか、馬鹿伯符」
と吐き捨てるように言った。
「なぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
寿春に、孫策の声が響き渡った。
―・―・―
「ちょ、待て尚香!! 何でお前がここにいるんだ!!」
孫策は目の前で不機嫌そうにふんぞり返る少女・尚香に声を上げる。
「なんじゃ! せっかく妾がはるばる会いに着てやったというのに、馬鹿伯符は自らの“妹”にそんな暴言を吐くか!!」
少女・尚香の言葉に、孫策がガクリと肩を落とす。
そう、確かに彼女の言葉通り、孫策の目の前にいる少女・孫尚香は彼の腹違いの妹だった。
しかし、孫策が袁術に仕えると言うことで、尚香も孫策の弟・孫権(字は仲謀)や母たち家族といっしょに江南の曲阿に住んでいたはず。
「ごまかすな尚香!! 今質問してるのは俺だ、何でこんなところにいるんだよ!!」
「いひゃひゃひゃ!! やめぬか無礼者!!」
孫策に頬をつねられ短い手足をぶんぶん振り回し必死に抵抗する尚香。
「そ、孫策様っ! そのあたりでどうか!!」
そんなやり取りをしていた孫兄妹に声をかける一人の男。
男の話によれば、男は孫家に代々仕えるものの一人で、この度は孫策に大切は伝言を預かり参上したのだと言う。
「伝言って……誰に?」
「孫策殿の叔父・呉景殿にです」
「呉景のおっさんに?」
未だに孫策の足元でもがいていた尚香から手を離し、孫策の顔色が変わる。
「おいあんたっ! 呉景のおっさんに何があったんだよ!!」
「はっ!! 実を申しますと……」
使いの男の話によると、揚州刺史・劉ヨウは曲阿の南・丹陽にいた孫策の伯父・呉景へ圧力をかけ、呉景は苦しい状況にあると言う。
「どうか、呉景殿を救ってはいただけないでしょうか?」
男の言葉に、孫策はしばらく黙っていたが
「あぁ、わかった」
やがて何かを決心したような表情で力強くうなずいた。
「時間がねぇ!! 俺は今すぐ袁術の親父さんとこ行って来るぜ」
「は、どうかお願いします」
「それじゃ……」
「またぬかぁっ!!」
「ぐおぉっ!!」
手早く話をまとめ、急いでその場を後にしようとした孫策に、完全に蚊帳の外に追い出されていた尚香が噛み付いてきた。
「だぁーもう!! なんだよ尚香!! ってそういやあんた!! 何でこいつがこんなところにいるんだよ!!」
孫策の問いに、使いの男は困った顔をしながら
「いや、曲阿から使いに走る途中で姫君に捕まってしまい、一緒に連れて行かないと長江に飛び込むとごねられたものでやむを得ず……申し訳ありません」
自分のふがいなさを実感しているのだろう、見ているのがかわいそうになるくらい弱々しく土下座をしてきた。
「い、いやあんま気にすんなよ……こいつをちゃんと見張ってない家族も悪かったし、兵士も悪かった、そして何よりこいつが一番悪かった、あんたはあんまり悪くねーよ」
そう言いながら孫策は未だに自分に噛み付いている尚香を引き剥がし
「で……なんか用か?」
優しい「兄」の顔で尚香にそう聞いた。
「あ……う」
面と向かってそういわれたとたん、今までの威勢のよさが消え、尚香はぶつぶつと何かを言う。
「だから……なんじゃ……その……このような機会でないと、こうして話もできぬであろう……馬鹿伯符が寂しがらぬよう……妾が気を回してやった……の……じゃ」
切れ切れの言葉で、顔を真っ赤に染めながらも尚香は自らの兄へそう言った。
「……」
そんな尚香の様子をぽかんと見ていた孫策だが
「そっか、ありがとよ」
―ぽん―
「あっ」
にっこりと笑って尚香の頭に手を置き、頭をなでる。
「この知らせのおかげで、俺はやっと天下に飛び出せる気がする……そうなったらよ、また家族水入らず……仲良く暮らそうぜ」
「あ……う、うむ……そんなことわかって……お、る」
素直ではないが、尚香もそう言ってうなずいた。
―・―・―
使いの男に尚香を任せ、孫策は単身、袁術のもとへと向かった。
「どうした孫策……そんなに急いで」
「袁術殿……実はお願いがございます」
孫策は膝を突き、袁術のほうをまっすぐ見て、普段の彼とは違うしっかりとした口調で早速話を切り出した。
「ついさっき曲阿から使いが参り、揚州刺史・劉ヨウが我が叔父・呉景へ圧力をかけ、我が叔父は苦境に立たされているとの伝令を受けました」
「何?」
袁術の顔色が変わる。
それもそのはず、劉ヨウは袁術が対立する袁紹側の武将、その劉ヨウをそのように野放しにしておくのは袁術にとっても捨て置けることではなかった。
「そこで、私に兵をお与えくださいますよう、お願いに参ったしだいでございます。必ずや劉ヨウを討伐してご覧に入れます」
そう言ってこちらを見る孫策を、袁術は難しい表情で見ていた。
「ならん」
やがて口を開いた袁術の言葉は、冷たいものだった。
「ど、どうしてですかっ!!」
孫策がすがるような目で袁術に問う。
袁術は暗い表情のまま答える。
「わしがそう簡単にだまされると思うか」
「っ!!」
袁術の言葉に、孫策の表情が硬くなる。
「お主のことだ……叔父の救援と言うのは真であろう……しかし」
袁術は続ける。
「その後、お主は自分に与えられた兵をそのまま持ち逃げする気であろう?」
「くっ……」
孫策は否定しない、否……否定できなかった。
そう、孫家の復興のため、この機会はどうしても逃せないものだった。
「劉ヨウの討伐は他のものに命じる、おぬしは早々に立ち去るがいい」
「……くっ!!」
孫策は立ち上がり、声を上げる。
「ちょっと待てよ!! 袁術の親父さん!!」
感情を抑えられず、普段の口調で孫策はさらに続ける。
「今あんたのところにいる兵のいくらかは元はと言えば俺の親父の兵だぜっ!! その返還を求めて何が悪いってんだよ!!!」
「さっき言ったとおりだ!! みすみす兵をくれてやるほどわしはお人よしでは無い!!」
袁術は孫策の言葉を切り捨てる。
「……だが、孫策」
「あん?」
再び口を開いた袁術に、孫策は目を向ける。
「お主がそれに釣り合う“代価”を払うというのならわしも兵を貸すのにやぶさかではないぞ」
「代価……? 今の俺に何を払えって……」
孫策は、袁術の言っている意味が分からない。
「分からぬか? おぬしが肌身離さず身につけておるものなのにか?」
「?!」
そこまでいわれ、孫策の心臓が高鳴る。
無意識に、孫策は自分の胸に手を当てていた。
「そうじゃ、知らぬとはいわせんぞ……おぬしが孫堅の死ぬ間際に受け取ったもの……」
「……」
「伝国の玉璽だっ!!」
孫策の心臓が、さらに激しく高鳴る。
「どうした……それを渡せば兵を返してやるぞ?」
「あんたが玉璽を持って……なんに使うつもりだよ?」
孫策の問いを、袁術は鼻で笑う。
「そんなことをおぬしが知る必要は無い……それで、どうするのだ?」
「……」
孫策は言葉に詰まる。
この玉璽も、孫家の未来も……死の間際、父が自分に託してくれたもの……。
そのどちらかを手放さなければならない。
だが……
「わかったよ……」
孫策はそう言って鎧のうちより伝国の玉璽を取り出す。
いくら伝国の玉璽とはいえ、孫家の再興に比べれば些細なもの、孫策はそう考えた。
「ほらよ」
玉璽は孫策の手を離れ、袁術のもとへと渡った。
袁術は手にした玉璽を満足そうに見ながら
「よし、ならばお主に父の兵三千を返してやろう……」
とだけ呟いた。
しかし……
「ちがう」
「何?」
孫策が突然口を開く。
「そんな数じゃねぇ……」
「なんじゃ? まだ足りぬと言うか……仕方のない奴じゃ……」
「そんなにいらねぇっ!!!」
袁術の言葉を遮り、孫策が声を上げた。
「な、なんじゃと?」
「袁術の親父さんに問うぜ!! 親父が黄巾の乱鎮圧に向かったときの兵の数を知っているか?」
「何?」
孫策の問いの意図がよく分からなかったが、袁術は静かに答える。
「確か、千五百ほどと聞いたが?」
「そうだっ!! わずか千五百だ!! 親父はそこから始まった!!」
孫策は続ける。
「俺はガキの頃から親父に『言葉』ではなく『魂』で常に『父を越えよ』と学んできたんだ!!」
孫策は思い出す、何も言わずに自分に背を向け続け、多くを教えてくれた、大きな父の背中を。
「その親父の教えは今もこの俺の『血』に確かに刻まれている!!」
「ま……まさかお主」
「そうだっ! 今回俺に返してもらう親父の兵……」
そこまで言って、孫策は突然その場に立ち上がる。
「親父をこえるためにも、今回俺に返してもらう兵は“千”で十分だっ!!!」
そして、袁術にむかって、はっきりとそう言い放った。
「……」
しばらくは何もいわずに黙っていた袁術だったが
「か、勝手にするがいい」
ただそうとだけいった。
―・―・―
そうして話を終えた孫策は、袁術の場を後にしようとする。
「じゃあな、今まで世話になった」
「ま、まてっ!!」
そんな孫策を、急に袁術が呼び止めた。
「なんだよ、今更なかったことなんていっても遅いぜ」
「わかっておる……べつに、なんでもない」
明らかに何かいいたそうであったが、袁術はそのまま口を閉ざした。
「あぁ、そうかよ」
孫策もさして気にする風でもなく、袁術に背を向ける。
「袁術の親父さんよぉ……俺、ずっとあんたに大切にしてもらってると思ってたぜ」
「……」
「親父をなくした俺をずっと心配してくれて、今まで面倒見てもらってよ」
そこで孫策は大きくため息をつく。
「でも、どうやら俺の勘違いだったみたいだな……俺を太守に任命してくれなかったのも……そう言うことなんだろ……あんたとは、もっと気持ちよく別れたかったぜ」
それ以上のことはいわず、孫策はその場を後にした。
―・―・―
袁術のところを後にした孫策は、壁に背を預け、大きく息をついた。
「今でも信じられねぇ……袁術の親父さん……どうしてあんなこと」
しかし、ある意味納得もできる。
「そうだよな、俺が持っていたのは皇帝の証『伝国の玉璽』……」
あんなものを前にしたら、人は平気で変わるものかもしれない。
だが……
「これでスッキリした!! 俺はもう袁術の親父さん……いや、袁術のために戦うことは無い」
拳を強く握り、これから起こるであろうことを想像し
「俺は……ここからどこまでも高く飛び立ってやる!!」
はっきりと、自分に言い聞かせるように呟いた。
―・―・―
孫策がその場を後にし、袁術は孫策から受け取った伝国の玉璽を眺めている。
しかし、その瞳はどこか空虚で、元気がない。
「これで……よかったのだ」
袁術が小さく呟いた。
「これで孫策は、わしのことなど気にせずに、天下へと羽ばたいていくだろう」
そう、いつかこうなると分かっていた。
孫策が叔父の窮地を知らせに来たとき、袁術は思った。
『とうとう……このときが来たか』
と。
「やはり……血は争えぬようだな」
袁術はそう呟いて、孫策の父・孫堅のことを思い出す。
反董卓連合として共に立ち上がった時、袁術は味方の孫堅の力を恐れ、彼に手を貸さずに彼の軍を窮地に陥れた。
しかし、孫堅は袁術を恨むことなく、さらには自らを裏切った袁術の命を救ってくれた。
そのことにどう報いればいいといった袁術に、孫堅は「未来……自分に何かあったときにでも、その借りを返してくれればいい」と言ってくれた。
孫堅が死んだ時、袁術は今こそあの時の恩に報いる時と、進んで孫策を迎え入れた。
しかし、孫策が孫堅と同じ末路をたどるのではといつも心配で、彼を大切にはしたが重用はできなかった。
ただ生きていてくれれば、自分が救われていく気がしたから。
だが、袁術は思ったのだ。
孫策は、自分のもとを飛び立てばもっと高く飛べるのではないかと?
そんな男を、自らの自己満足のためにつなぎとめておいてよいものか……
さっき立ち去ろうとした孫策を思わず呼び止めそうになったが、そう考え思いとどまった。
迷うことはなかった、答えは否だ。
「そうだ、これでいいのだ……孫策がわしに失望すれば……彼も迷いなく天下へと羽ばたいていけるのだ……」
これでよかった。
「孫堅殿……わしに孫策を見守ってやれるのはここまでだ……どうかあの世から孫策を見守ってやってくれ……」
最後に、袁術はとても穏やかな表情で呟いた。
「孫策……お主の飛躍は、きっとここからはじまる……お主はお主らしく……どこまでも羽ばたいてゆくがいい……わしのことなど気にせずに」
こうして、袁術のもとを飛び立った孫策は、父の残したかつての臣下、程普、韓当、黄蓋らわずか千の兵と共に曲阿の劉ヨウ討伐へ向かった。
しかし、曲阿へ向けて軍を進めるたびに、孫策の魅力に多くの者がひきつけられ、一人、また一人と軍に加わっていく。
そして……
「孫策様っ! 前方より二、三千の軍勢が近づいてきます!!」
程普の言葉に、孫策も目を向ける。
「ははっ!!」
軍の行軍を見た孫策は、思わず笑いを漏らす。
「あいつ!! やっぱりきてくれたかっ!!」
孫策の言葉に首をかしげる臣下たちだったが、軍が孫策のもとへ到着する頃にはその疑問は納得へと変わっていた。
「……」
軍を率いていたのは一人の男。
孫策と同じで、男と言うにはまだどこかあどけなさの残る顔つき。
女性と見まごうばかりの美しい青年。
孫策は青年のもとへと馬を進めるとお互いの腕を打ちつけ、にっこりと笑った。
「久しぶりだな……孫策」
「あぁっ! きてくれると思ってたぜ!! 周瑜!!」
遥か昔、いつか共に戦おうと孫策が誓い合った無二の親友・周瑜。
その彼が今、この場にいた。
「いよっしゃぁー!! もう俺たちに怖いもんはねぇぇっ!! いくぜみんなぁっ!!!」
―オオオオオオオオオオッ!!!!―
その後も孫策の軍は拡大していき、わずか千で始まった彼の軍は敵地につく頃には六千ほどまでに膨れ上がっていた。
その中には
袁術軍から孫策のもとへ加わった賢人・呂範、朱治。
海賊出身の勇将・周泰、ショウ欽。
二張と称されるほどの賢人・張昭、張コウ。
など、後の呉を支えていくことになる名だたるものが含まれていた。
後に“江東の小覇王”と称される孫策の飛躍、第一歩であった。
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