〜虎牢関の戦い・中編〜

第3話「可憐な狂気を纏うもの……


 曹操軍と董卓軍の戦場から去り、一人都へ馬を進める賈ク。
「ククク……」
その胸の内には未だに曹操との短いやり取りが残っている。
 タチの悪い病魔に侵されたようだ。
しかし、そんなものが気にならないほどに、今賈クの心を染めているのは、限りない喜びの感情だった。
 そう遠くない未来……自分は確実に、心の中に闇を秘めた“曹操”という男と殺し合う。
その殺し合いを想像するだけで、自らの身のうちに秘められた心の闇が共鳴し、体中に広がっていくような気がする。
それが、限りなく心地良い。


「ん……」
しかし、そんな賈クの視界に、ここにはあるはずのないものが映る。
「あれは……」
賈クから遠く離れたところを、馬に引かれた豪奢な輿が通っていく。その周りを多くの騎兵たちが取り囲み、守っている。
 限りなく豪奢な輿が、荒野をどこへ向かって走っているのか?
考えるまでもない。
 輿がむかっているのは間違いなく、先ほどまで賈クのいた戦場だった。
そして、賈クが気になっていることはそんなことではない。
「あれは董卓様の……」
そう、今馬に引かれて走る輿は、見間違えるはずもない。
 普段董卓が都での移動に使っているものだった。
「……」
賈クはしばらくその輿を見つめていた。
 董卓は確かに戦場にいた。よってあの輿には誰も乗っていないはず。しかし、それにしては輿を護衛する兵の数が異常だった。
「……なるほど」
そこで賈クは思い至った。正確にはまだいたのだ、あの輿に無条件に乗れる人物が。
「……チィッ」
その結論に思い至った途端、賈クは不愉快さを隠すこともなく吐き捨てた。
「何をしに来た……あの小娘ッ!!」
しかしそんな賈クに気がつくこともなく、輿は戦場へ向かって走っていった。
「……」
賈クは一瞬止めようとしたが、やめた。
「まぁ……いいだろう。今の俺は機嫌がいい……せいぜい好きにするんだな」
賈クは再びそう吐き捨てると、輿とは反対方向に向かって馬を駆った。

「くっ!!」
肩に矢を受け、兵卒になり済ましていた董卓軍の軍師・李儒は鋭い視線で曹操を睨みつけている。
 董卓軍の司令塔として軍を指揮していた李儒の動きが止まり、戦は一時中断してしまっている。
「い、いつから気がついていた!?」
肩に刺さった矢を引き抜きながら、李儒は憎々しげに叫んだ。
「そんなに知りたいかね?」
弓矢を夏侯淵に返しながら、曹操はそう答えた。
「っ!!」
李儒は答えない。
「いいだろう!! そこまで言うのなら偉大な私が君たちに教えてあげよう」
曹操は勝手に話を進めた。李儒は何も言っていない。


「ぶっちゃけこれが董卓君の用兵でないのは一瞬で分かったよ?」
曹操はそんな言葉から切り出した。
「な、なんだと?!」
李儒は動揺を隠せない。
「な、何故だ!!」
「いや、見るからに何もしていなかったではないかね? 董卓君は」
曹操は冷静に返していく。
「ならばあとはどこに他の司令塔がいるのか捜せばいいだけの話だ」
「ぐ……」
曹操の言う事は実に単純だが、どう考えても簡単に出来ることではなかった。
「最初はどこかにこそこそと隠れているのかと考えたのだがね……」
曹操は再び切り出した。
「君たちの軍をぼんやりと眺めていたときだ……ふと気がついたんだよ」
「何?」
「“一見均整が取れただけで、無秩序に分かれている董卓軍二万だが、大きく分けて二千ずつ『十』の隊に分かれている”と言うことにね」
「!!」
李儒はもはや声も出ない。
 曹操は続ける。
「ならばこの十の隊を一つ一つ観察すれば、この用兵術を行う指令塔がわかるのでは無いか……と思ったんだよ」
「……なるほど」
隣の夏侯淵もただ舌を巻くばかりだった。夏侯惇に関しては口を開けた間抜けな格好で固まっている。
「そしてそれぞれの隊を一つ一つ観察していて気がついたんだよ、十の隊のうち“九つ”の隊はある規則性をもとに動いていると」
「……そんな、馬鹿な!!」
李儒はただ叫んでいた。
 確かに曹操の言うとおり自分はこの董卓軍を大きく十の隊に分けていた。しかし、その動きは人の目で規則性を捉えられるようなものではなかったはずなのだ。
一つの隊を見つけても残りの隊がバラバラに動くことでその隊を見失ってしまうように調練に調練を重ねた。
 それにどう考えても、この曹操と言う男は董卓軍の動きを見ていたとは思えない。
 崖の上にいた賈クにずっと気を回していたはず。
「そう、その九つの隊は、必ず攻撃の前に、一瞬だが残りの一つの隊を中心に陣形を組んで、それぞれの動きを行っていた」
曹操は自信たっぷりに言い切った。
「おい淵……気がついたか?」
「いいえ、全く」
夏侯兄弟は相変わらず。
「そしてその残り一つの隊に注目してみたらどうだね? 十の隊の中で一番激しく動き回っているのにこちらには決して仕掛けてこない……つまりその隊が残り九つの部隊の間を動き回りながら指示を出している司令塔だ。ならばあとは簡単だ、司令塔の隊の中からさらに人物を絞ればそれで終わりだ……調練を重ねたようだけど、一兵卒の周りに将兵が何人も護衛に付くように固まっていれば……さすがに気がつくよ、李儒君」
曹操は再び李儒へ視線をやり、頭上を指差しながらこういって閉めた。
「君はすばらしい軍師だよ。そして全てを巧妙に隠そうとしたようだが……甘いね、私には『天』がついている。そして『展』により我が千里の理を見通し続けている。その偉大な私を欺くことなどできんよ?」
と。
「……!!」
李儒はもはや声も出ない、ただ憎憎しげに曹操をにらんでいる。
 しかし言いたいことを言って満足したのか、曹操は崖の上で未だに沈黙を保っている董卓の方へ目を向けていた。
「どうするのかね董卓君? 君の軍師君の策はつぶさせてもらったよ……」
自信たっぷりの曹操の言葉が終わるのと同時だった。
「ふ……」
董卓がゆっくりと動き出した。


―ザッ―
 
董卓の馬が一歩前に出る。
「!!」
それだけで曹操軍は先ほど以上の緊張に包まれる。

いよいよ“魔王”との戦いが始まる……

誰もがその事実に身構えずに入られなかった。
「……」
董卓が突然腕を挙げ、今にも全軍に号令を発しようとする。
「フ……」
それに対して、曹操も身構える。
 その時だった……。

―ガガガガガガガガガガガガガッ―

「?!」
崖の上に馬に引かれた豪奢な輿が姿を現した。
 その周りは数多くの騎兵で固められている。
 突然、ありえないものの登場にその場のもの全てが時を止めてしまった。


「あれは……董卓様の?」
董卓軍の兵は口々にそう漏らす。
「董卓の輿だと?」
「……どういうことでしょう?」
夏侯兄弟も首をかしげながら曹操へ目をやるが、彼にもわからない事態なのか、黙って首をかしげている。

―タタタタタタッ―

車を守っていた騎兵の一人が馬を降り、董卓へ拝礼してから輿へ声をかける。
「申し上げます! 只今目的地に到着いたしました!!」
「……」
輿の中から返答は無い。
「……」
董卓は輿の中の人物に心当たりがあるのか、ゆっくりとその口を開いた。
「俺はお前をこの場に呼んだ覚えは無いぞ、何のつもりだ……」
「……」
中からはまだ答えがない。
 だが

―クス―

車から小さな笑い声が漏れてきた。


―クスクスクス―

笑い声は未だに続いている。
 血塗られた戦場にはありえない、鈴を鳴らしたような可憐な声。
「フフフフフフフ……」
押し殺した笑いとは違う、はっきりとした笑い声が響く。
「アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!」
やがて笑い声は戦場に響き渡るほど大きなものとなっていた。
「クスクス、簡単なことですわ……」
可憐な声が初めて笑い声以外の言葉を口にする。
「都にいるのは、あまりにも退屈だったんですもの……」
言葉と同時に、輿の幕が引かれていく。

―サァァァァァァァ―

「!!」
中から姿を現した人物を見て、誰もが驚きを隠せなかった。
 それほどまでに、輿の中から現れた人物は「戦場」において異常な存在だった。


「女……」
夏侯惇が小さく呟く。
 そう、彼の言葉通り、董卓の車に乗っていたのは一人の女だった。
否、その者は“女”と言うにはあまりに幼い“少女”だった。
「クス♪」
年のころは十をこえているかどうかも分からない。それほどまでに少女は幼かった。
 しかし、この世の財全てを集中させたかのような装飾品の数々を当然のごとくその身にまとい、少女とは思えない妖艶な空気をまとっていた。
 また、幼いながらも花も恥じらい、月もその姿を隠さんばかりの美しき容姿に、黒絹のようなつややかな髪。
 少女は“人間”という造形として“傑作”という形で生まれた姿をしていた。
「……」
しかし、曹操軍の兵士たちはその美しさに魅了されるよりも、もっと別の感情に支配されていた。

 十に満たぬような少女を相手に明らかな“恐怖”の感情を

それもそのはず、戦場の惨状をその目に収めながら、少女は顔色を変えるどころか、どこか楽しそうにしている。
 風が運ぶ死の香りを余すことなく自らの肺へと送り込み、どこまでも純粋な“狂気”と“禍々しさ”を秘めた瞳で兵士たちを見下している。
誰もが思っていた。
この少女の纏う雰囲気は……まるで
「董卓……」
夏侯淵が小さく呟いた。


そう、少女は鈴を鳴らしたような可憐な声、この世のものとは思えない美しき容姿……それと同時に董卓が持つ“邪悪さ”や“禍々しさ”をもその身にまとわりつかせている、限りなく矛盾した存在だった。


「な……な」
李儒は曹操に自らの策を見破られた時以上の驚きをその顔に浮かべ、董卓は黙って現れた少女を睨みつけている。
 戦場の全ての視線が自らに集中していることに全く臆することなく、少女は輿から顔だけを出すと、どこまでも可憐で、限りなく邪悪な笑みを浮かべて口を開いた。
「曹操軍の皆様……ごきげんよう。私は董相国の孫、名は“白”と申します♪」

 


 

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