〜��水関の戦い〜

第１話「恐慌」

　霊帝を殺害し、献帝を新たな皇帝とした董卓は、洛陽の都で暴虐の限りを尽くした。人々は苦しみ、洛陽は地獄と化した。

“董卓討つべし！！”

その声明は瞬く間に大陸全土へと広がり、群雄は次々と立ち上がった。

「反董卓連合」の生まれた瞬間であった。

��水関、反董卓連合軍本陣――――――

　幕舎の中では、複数の諸侯が軍議を行っていた。
しかしどの者の表情もどこか暗かった。
　今反董卓連合は壊滅の危機に陥っている。
それも……たった一人の男によって。

「ヒャハハハハハハ！！　弱い！！」
黒馬に跨った一人の男が、悪鬼の咆哮を思わせる声で叫んだ。その足元には頭から真っ二つに断たれた連合軍の武将の躯が転がっている。
　その体は虎のように華々しく、その腰は狼のように鍛え上げられ、見るもの全てを恐慌に陥れる豹のような雄々しき顔をした男。

　黒馬さえ薄く見える漆黒の鎧を纏い、血で輝きが失われた黒刀を引っさげ、馬上からの一薙ぎで周りに構えていた連合軍兵卒全ての命を奪い、男は再び叫ぶ。
「雑魚どもがぁっ！！　この“華雄”に傷を負わせることが出来るとでも思っているのか！！」
男の名は華雄……董卓軍“最強”にして“最凶”の名を欲しいままにする、現世に産み落とされた、人の姿をした悪鬼だった。
　すでに無数の名のある武将が彼に挑み、全て一刀の下に斬り殺されていた。
華雄は傷ひとつ負うことなく、一歩、また一歩と本陣への守りを突き破ってくる。

「えぇい！！　なんという猛将だ！！」
軍議の最中、周りの諸侯たちの目も気にせずに、反董卓連合軍の盟主・袁紹（字は本初）が頭を抱える。
「まさか董卓のもとにこのような邪鬼が潜んでいようとは！！」
周りの諸侯も全く口を開こうとしない。
「孟徳……どうにかならないか？！」
袁紹は少しはなれたところで比較的涼しげな顔をしている男・曹操（字は孟徳）に声をかける。
　曹操はその鋭い眼をそっと閉じると
「どうだろうな？」
あいまいにそう言って、それきり口を開かなくなってしまった。
昔なじみのはっきりとしない返事に、袁紹は深いため息をつくと
「我が軍の猛将・顔良と文醜のうち一人でもこの場にいれば……」
かなわぬ望みを小さく漏らす。
袁紹は立ち上がって声を上げる。
「だ、誰か華雄を討ち取れるものはおらんのか！？」
その問いに数々の武将が名乗りを上げ、そして殺された。
「……」
今では誰一人名乗り出るものなどいない。
「うぅむ……」
袁紹が呻いたとき

―バッ―

幕舎の中へ血だらけの兵卒が転がり込んできた。
「な、何事だ！？」
袁紹の問いに兵卒は息も切れ切れに答えた。
「て……き、将……華雄、第……三陣、を……と、っぱ、し……確……実、に……本、陣……へ」
そこまで言い、兵卒は息絶えた。
「……」
全諸侯たちが息を呑んだ。
もうだめだ……そんな空気があたりに流れている。
「お、おのれぇぇ……」
再び袁紹が頭を抱えたときだった。

「あっはははははははは！！！！！！！」

幕舎の中に、暗い空気を全て吹き飛ばすかのような明るい笑い声が響いた。
「だ、誰だ！？」
袁紹が大声を上げると、幕舎の中へ一人の男が、青竜刀と蛇矛を引っさげた二人の偉丈夫を引き連れて入ってきた。

入ってきた男は、戦場の真っ只中だというのに鎧一つつけず、民草と大して変わらぬ格好をしていた。そのくせ腰に下げた剣は二つとない事が見るだけで分かる名剣で、男本人もどことなく気品を漂わせていた。
「ははははははは！！！！」
男はいまだに笑い続けている。
「ぶ、無礼者！！　軍議の場を何だと思っている！！　何者だ貴様！！」
袁紹が声を荒げると、軍議の場にいた男・公孫サン（字は伯珪）が口を開いた。
「我が軍に所属するもので自分とは昔なじみの男、劉備……字を玄徳と申すものだ」
その名を聞いた途端、袁紹の顔色が変わる。
「劉備玄徳？！　まさか黄巾討伐のとき数少ない義兵を率いて大きな戦功を立てたという……」
「……中山靖王・劉勝が末裔と噂されている男か」
袁紹のあとを、曹操が続けた。
「あぁ〜、んなこともいわれてたなぁ〜」
劉備は、さもどうでもいいことと言うように答える。
「つか、そんな噂怪しいもんだぜ？」
といったかと思うと
「兄者……」
劉備の後ろに控えていた、二人の男のうち青竜刀を持つ立派な髭を蓄えた男が、たしなめるように口を開く。
　劉備は悪い悪いと男に言いながら
「ま、そーゆーことにしといてくれれば助かるけどな」
飄々と言ってのけた。
「う、うむ……それは分かった」
劉備になんとなく調子を狂わされた袁紹は、咳払いを一つし言葉を続けた。
「それで、劉備殿……先ほどは何ゆえ笑われていた」
袁紹の言葉に、劉備は心外といった風に答えた。
「いや、みんなしてため息つきながら頭抱えて、あんまりにも滑稽だったからなぁ」
「兄者……」
悪びれもせずに言う劉備を、また青竜刀の男がいさめた。
袁紹は劉備の言葉を聞くなり大声で怒鳴った。
「そ、そなたは何を言っておるのだ！！　今この本陣がどれだけ危機に陥っているか分からぬわけではあるまい！！」
「なんだ、そんなに危ないのか？」
劉備は首をかしげる。
「当たり前だ！！　今も刻一刻と、董卓軍の華雄がこちらへ迫っているのだ！！」
袁紹から華雄の名を聞いた劉備は、しばらく考えるように黙っていたが
「華雄……あぁ！！　さっきから表で暴れまわってるやつか」
やがてそう言いながら、ポンと腕を叩く。
「う……うぐ」
　その緊張感のかけらもない動作に、袁紹もすっかり毒気を抜かれてしまった。
「つまりは困ってんだな？」
劉備はそう言って、先ほどからたびたび自分をいさめていた青竜刀を持つ男へ振り返り
「雲長……どうよ？　華雄は」
等と軽い口調で聞く。
　雲長と呼ばれた男は蓄えられた立派な髭をなでながら
「まぁ……やってみましょう」
とだけいうと、袁紹の前へ進み出る。
　最低限の鎧に身を包みながらも、悠然と歩を進めた男は、袁紹に拝しながら言った。
「某……関羽雲長と申します。願わくば袁紹殿……某に出撃を命じてください」
「な、なんだと？！」
あまりにも唐突な言葉に、袁紹はつい間抜けな声を出してしまった。
「き、貴様！！　ふざけているのか！！」
足軽同然の武装しかしていない関羽に、袁紹は怒鳴った。
「待ちたまえ、本初……」　
しかし、それをいさめる声があった。
　皆が声のあるほうへむくと、そこには冷たい笑みを浮かべた曹操がいた。
「関羽君といったね……存分にその武を振るって来たまえ」
「御意……」
曹操にそう言われると、関羽は劉備のほうへ向き直る。
「兄者……行ってまいります」
「助けはいるか？」
劉備が軽口で聞くと
「ご冗談を……」
軽く笑いながら幕舎の外へと消えていった。
「も、孟徳！！」
「分からなかったのかね本初？」
激する袁紹に対し、曹操はあくまで冷静に答える。
「？」
「まぁ……結果はあの男が持って帰ってきてくれるよ」
曹操はそう答えて劉備へ温かい酒の入った杯を差し出しながら
「違うかね？」
と問う。
「違わねぇな」
劉備は杯を受け取りながらそう答え、さらに曹操にだけ聞こえる声で呟いた。
「しかしあんた……なんであんたが出ない……楽勝だろ？　それとも、今はまだ出し惜しみか？」
劉備の問いに、曹操は一瞬驚いた顔をしたが
「どうだろうな」
不適に笑って答えた。先ほど袁紹に言ったあいまいな口調とはちがう、どこか自信に満ちた口調で。
「あっははははははは！！　こりゃあいい！！」
それを聞いた劉備は大声で笑い、杯を掲げ、しかし口には運ばなかった。
「さて、これは雲長にやることにするか」
そんなことを言いながら劉備は蛇矛を持ったもう一人の男を従え、幕舎の外へと出て行った。

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