〜各地の群雄〜

第2話「江東の虎、死す」

 

「何?! 荊州の劉表を攻める?!」
「はい、明日洛陽を出、その足で荊州へ攻めるつもりです」
 孫堅の言葉を聞き、袁術は驚く。
「た、確かに荊州に劉表を置いておくのは不安があるが、そんなに無理をして攻める事もないだろう」
 本音を言えば、袁術も孫堅に荊州を攻めてもらえれば助かる。
 荊州刺史は、兄弟でありながらどうも不仲の袁紹が任命した劉表だ、十中八九劉表には袁紹の息がかかっている。
 豊かな土地である荊州に袁紹の息のかかった者を置いておくのは何かと不安だ。
 しかし……
「わしはこれ以上そなたに借りを作ってはいられぬ」
 袁術は難しい顔でそういった。
「何を言います、私は自分の意思で劉表を攻めるのです、別にあなたに貸しを作るつもりはありません」
「それは分かっているが……これはあくまでわしの気持ちの問題だ」
 袁術はそう言うが、孫堅を抑える方法など思いつかない。
「ならば、せめてもう二日待ってくれぬか? 後二日もすればこの洛陽の復興も一通り片がつく、それならばわしの兵をそなたの軍に加えることが出来る」
「いえ、お気持ちだけ受け取りましょう」
 袁術の提案を、孫堅はきっぱりと断る。
「袁術殿、相手は劉表です……この私が遅れを取るとお思いか?」
「そんなことは全く心配していないが、万が一ということもあるだろう?!」
 袁術は必死に孫堅をとどめようとする。
 しかし、孫堅の決意は固かった。
「袁術殿……もう、決めたことです」
 静かにそう言いきられては、袁術にこれ以上言うことはなかった。
「分かった、劉表を攻めてくれればわしが助かるのは事実、すまないが……まかせたぞ」
「はい」
 孫堅がそう言ってうなずいたときだ
「親父!!」
「?」
 孫堅たちの下へ、ものすごい勢いで走ってくる男がいた。

 無論、戦を前に気持ちの高ぶりを押さえられぬ孫策である。
「伯符ではないか……どうした?」
 袁術が孫策に声をかける。
 袁術は孫策の才能や性格を愛し、息子として可愛がっていた。
「おう!! 袁術のダンナ!!」
 孫策は袁術へ軽く挨拶をした後、自らの父へと顔を向ける。
「親父!! ありがとよ!!」
「あぁ……」
 まっすぐ孫堅を見つめる孫策に対し、孫堅は孫策と目を合わせようとしない。
「……」
 孫堅の様子に孫策は黙り込む。
 今に始まったことではなかった。
物心ついたときから、孫策には父親である孫堅にまっすぐ目を向けられた覚えは無い。
 調練をするときも、話をするときも、孫堅はいつも孫策から目を逸らしている。
 孫策だけではなかった、弟の権とも、妹の尚香とも、孫堅は目を合わせたことがない。
 だが、息子として愛されていないと感じたことは一度もない。
 孫堅は厳しくもよい父親であり、孫策はそんな父の事を尊敬している。
 しかし、時々思うのだ、ならば何故……父は自分を見てくれないのか、と。
「は、伯符?」
 何がどうなっているのか、いまいち話を飲み込めていない袁術が、孫策へ声をかける。
「おっと、すまねえ袁術のダンナ」
孫策は袁術に謝りながら、彼に向かって言った。
「実は次の戦に俺も出るんだ!!」
「は?」
 完全に予想外の言葉に、袁術はつい間の抜けた声を出してしまった。
 が、言葉の意味を理解した袁術は段々と顔を青く染めていく。
「なぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」
 突然大声を上げる袁術、驚き方が尋常ではない。
「ななな、なな、何を言っているのだ孫堅殿!! 孫策に戦などまだ早すぎるのでは無いか?!」
袁術が孫堅に掴みかからんばかりの勢いで声を上げる。
「いえ、こいつも十分な調練は済ませてあります、今ではそのあたりの武将などには負けません」
 孫堅は自信たっぷりに言い切った。
「し、しかしだな!! 実戦と調練は全く違うもので……」
「だぁいじょうぶだって袁術のダンナ!!」
 孫策もそう自信たっぷりに言い切る。
「いや、だが……」
「袁術殿、ご安心なされよ」
 未だに納得がいかない様子でおろおろとしていた袁術に、孫策から遅れてこの場に着いた程普たちが言った。
「程普殿……それに韓当殿に黄蓋殿も」
 程普は、袁術の前に歩いてきて、もう一度言った
「安心されよ、袁術殿、こんな者でもわが主のご子息、我ら三将が必ず守り抜いて見せます」
「おい程普、こんな者ってなんだよ、つーか俺はお前らに守られる必要なんかねーぞ」
 程普の言葉に孫策は口を尖らせる。
「そう言うことです、袁術殿には、洛陽の守備をお任せします」
 孫堅はそう言って改めて袁術のほうを向く。
 観念したのか、袁術は大きくため息をつき
「あぁ……よい知らせを待っているぞ」
 もう引きとめようとはせずに、彼も素直にうなずいた。
「よっしゃ!! 明日からに備えてもういっちょ張り切るかぁ!!!!」
 孫策はそう言って再び外へ飛び出していった。
「まったく、いきなり飛ばしては後が続きませんぞ」
 程普はあきれたように孫策に言ったが
「……」
 孫堅はその様子を静かに見守っていた。

盧江郡舒城――――――

とある館の一室で、庭を眺めながら筝曲を奏でる一人の男。
 まだ若く、女性と見まごうばかりの美しい顔をした男だった。
 纏う雰囲気は優雅でいて華麗、わずかに憂いを帯びた瞳に長いまつげ、朱が塗られたかのような美しい唇。
 筝曲を奏でる指は一片の曇りなく動き、美しい音色を響かせる。
 男の名は周瑜(字は公瑾)、後に呉の軍師として、かの有名な“赤壁の戦い”で曹操を破ることになる英雄である。

 演奏がひと段落付き、周瑜が楽器から手を離した時だった。
「周瑜様」
 演奏が終わるまでずっとそこに控えていたのだろう、家の召使いが周瑜へ声をかける。
「あぁ、ごめん……演奏に夢中で気がつかなかった」
「いえ、私が周瑜様の筝曲の音に声をかけるのも忘れてしまっただけです」
 召使いはそう言いながら、周瑜へ何かの束を渡す。
 いや、それは束というよりももう山だった。
「これは、まさか……」
「いつものように、周瑜様宛の文でございます」
「うわ……」
 召使いの言葉を聞いた周瑜が難しい表情をする。素直に喜びたいが、どうすればいいのか困った表情。
「またこんなに?」
「それだけ周瑜様は多くの方に慕われているということです」
 周瑜はその容姿端麗にして文武両道、さらには音楽や剣舞まで難なくこなすことから、人々に“美周郎”と呼ばれ慕われていた。
 毎日のように周瑜の館へは彼宛の大量の恋文が届いていた。
「本当に、こう言うのをもらえるのはありがたいんだけど……」
 全てを呼んで返事を返すことを考えると、やはりため息が出てしまう。
 とりあえずもらったものは仕方がない、そう考え文を一通り眺めていた周瑜だが
「あれ?」
 見覚えのある文字を見つけて、その文を拾い上げる。
「どうされました、周瑜様」
「これ……伯符からの文じゃないか」
 周瑜が小さく呟いた。
 周瑜は孫策と幼い頃からの知り合いであり、義兄弟の契りを交わした仲だった。
「少し前に、戦に連れて行ってもらうって言ってたけど……その報告か?」
 周瑜はそう言いながら文に目を通そうとする。
 この前は戦に連れて行ってもらえるだけで参加できないと言う愚痴が延々と書かれていたが……
「何々……?」
 しばらく文に目を通して、孫策がいつもどおり元気なことが分かると、つい口から笑みがもれてしまう。

  しばらく会っていないが、彼の文を読んでいるだけで、懐かしい気持ちになる。
 そうしてしばらく文を読んでいた周瑜だが
「えぇっ?!」
 突然声を出して固まる。
「どうされました? 周瑜様」
「……」
 召使いが声をかけるが、周瑜は黙り込んだままだった。
「……伯符が」
 しばらくの沈黙の後、周瑜は小さく呟いた。
「ついに戦に出る……らしい」
 周瑜は大きくため息をつく。
「はぁ、また先を越された……」
 友として素直に祝福してやりたいが、同時に先を越されたことが悔しかった。
「文を書いたのは結構前だな……ということは今頃は伯符のやつ……」
 周瑜は館から庭に出て、空を見上げる。
「俺も、こうしちゃいられないな!!」

 もっと知を磨き、武を鍛え、自分はいつか孫堅殿にお仕えするんだ……

「伯符とともに……」
 決意も新たに、周瑜は屋敷に向かっていく。
「でもその前に、もらった文の返事を書かないとな……」
 小さく呟いた周瑜は、どこか楽しそうだった。

荊州・樊城――――――

洛陽を出た孫堅軍は劉表を討つべく軍を南下、そのまま荊州へと向かった。
劉表は袁紹からの使者によりあらかじめ体勢を整え、黄祖に孫堅を迎え撃たせた。
 黄祖は守りを固めたが、孫堅軍の猛攻はすさまじく、城を攻略されるのは時間の問題だった。
「恐れるな!! 進め!!」
 孫堅の号令が戦場に響き渡る。
 自ら先陣を切る孫堅の姿に皆が奮起し、孫堅軍の士気は上がり続ける。
「おっしゃぁ!!! いくぜいくぜ!!!」
 孫策も初めての戦に恐れることなく、ただ前に進む。
「はぁぁっ」
 目の前に立ちふさがる劉表の兵。
「はぁっ!!」

ザシュッ

 孫策は腰の剣を一閃、瞬く間に兵士の命を奪った。
「……」
 剣を通して自分の手に、“人を斬った”いやな感触が伝わってくる。
この瞬間、自分は自らの手を血で汚した。
 その事実に恐れ、戦うことが出来なるものを孫策は何人も見てきた。
 しかし
「おらおらぁっ!! どんどんきやがれ!! 俺はもう立ち止まれねえんだよ!!!」
 孫策は目の前の現実に恐れることなく、さらに剣を降り続けた。
「俺は殺したてめぇらの命を全部背負ってやる!!! だから全力で向かって来い!!!」
 孫策の戦いぶりはまさに獅子奮迅、それは程普たちどころか孫堅の予想さえも遥かに超えるものだった。
「若君!! 突出しすぎですぞ!!!」
 劉表の兵に阻まれ、思うように孫策を援護できない程普が孫策に声をかける。
「安心しろ!! 俺は戦場では絶対に死なねぇ!!!!!」
 孫策の突撃は止まらない。
「おのれぇ!! 若造めが調子に乗るな!!!」
 黄祖配下の将が巨大な鉄鞭を古い孫策へ襲い掛かる。

ガンッ

「が!!」
 何とか防御をしたものの、孫策は衝撃のあまり馬から叩き落とされる。
「若君!!」
 韓当が弓を放つが、周りに兵が多すぎて将を射ることが出来ない。
「死ね!!」
 馬上から黄祖の将が孫策へ向けて鉄鞭を振り下ろす。

ビキィ!!!!!

 地面に転がり落ちたばかりの孫策に避ける間もなく、鉄鞭は孫策の頭に直撃する。
 同時に響く、何かが砕ける嫌な音。
「なっ!!」
 程普たちの顔が絶望に染まる。
「はぁっはははははは!!!!」
 黄祖の将は声を上げて笑う。
 殴られた孫策の体はゆっくりと崩れ落ちていく……
 が。

ガシッ!!!!

「な?!」
 倒れる寸前で、孫策の体は踏みとどまる。
「勘違いしてんじゃねーよ……」
 孫策がゆっくりと頭を上げる。

バキンッ

同時に黄祖の将が持っていた鉄鞭が真っ二つに砕け散る。
「なっ!! 馬鹿な!!!」
 驚きは黄祖の将だけのものではなかった、程普も、韓当も、黄蓋も、目の前の光景を信じられないという面持ちで眺めている。
「おあいにくさま……普段からバコバコ殴られまくっててなぁ、この程度の攻撃なんでもねえんだよ!!!!」
 頭から血を流しながらも、孫策は握った剣を馬上の敵将へ突き出す。

ダンッ

「ぐあぁ!!!」
 孫策の剣が敵将を貫いた。
「!!!」
 孫策のあまりの強さに、黄祖の兵たちは完全に戦意を喪失してしまう。
「おらぁっ!!! まだやんのか?!」
「ひぃぃ!!!」
 孫策の一喝に、黄祖軍は蜘蛛の子を散らす勢いで城へと戻ってしまった。
「今だ!! 一気に攻め立てよ!!!」
 そこに孫堅の号令が響く。

ウオオオオォォォォォォォォォォォォ

 孫堅軍は勢いをさらに増し、黄祖軍はそれを抑えることが出来ずに襄陽の劉表のもとへと撤退してしまった。
「皆の者!! 勢いを捨てるな!!! このままさらに攻めるのだ!!!!」
孫堅の号令に軍の士気は留まるところを知らず、さらに奥へと攻めようと動き出していく。
「おっしゃぁ!! 俺もだ!!」
「伯符……」
 


兵たちに続いて進もうとした孫策を、孫堅が呼び止めた。
「あ? 何だよ親父」
 あまり孫堅から声をかけられるということがなかった孫策は、突然のことに戸惑う。
「……」
「!!」
 今、孫堅は孫策のことをまっすぐ見つめていた。
 いきなりのことに、孫策はどうしていいかわからず、ただ父の言葉を待った。
 だが、孫堅は何も言わずに孫策の頭へ手をおき。
「私の予想を遥かに超えた強さだった……お前がいれば、私に何かあっても大丈夫だな」 
とだけ呟いた。
「な、何言ってんだよ親父!! いくらなんでもそりゃ褒めすぎだぜ」
 照れくさかったのか、彼は頭から流れる血を拭き取りながら呟いた。
「何、冗談だ……」
 孫堅もそれ以上何も言わず、何事もなかったかのように馬を進めて行った。
「な、何だよ一体……」
 その場に残された孫策はどうすればいいか迷うが、仕方なく孫堅の後に続いた。

「……」
 自分らしくない、孫堅はそう思っていた。
 ただ黙って前を歩き、背中を見せるだけでいい。
 自分の息子たちは、そうするだけで付いてこれる強い子達だった。
 だから、生まれてから一度も、孫堅は子供たちをまっすぐ見つめて話しかけたことは無い。
 そんなことをせずとも、子供たちは確かに応えてくれたのだから。
 だが、それでも振り向いて子供の事を見てしまった。
 なぜかは分からない。
  ただ、そうすることが正しいと感じただけだった。
 そして実際に子供の姿をまっすぐに見つめてみたらどうだろう……。
 初めて見た子供の姿は、ただまっすぐに自分を見つめていて、その姿を見たとき、孫堅の心は誇らしさで満たされた。

 その時だった

ドッ

「!?」
 孫堅は不意に、何かに体を貫かれる感触を得た。
 周りを見てみると、程普、韓当、黄蓋、そして孫策が驚いた顔で自分に目を向けている。
 自分の体を見てみると、一本の矢が自らの心臓を貫いている。

 

「流れ……矢、か」
 口から血を流しながら、孫堅は馬上から崩れ落ちていく。

ドサッ

体に痛みはなく、そして感覚もなかった。
「と、殿ぉぉぉぉっ!!!!!!!!」
 程普たち三将と孫策は馬から飛び降り、孫堅のもとに走り寄る。
「殿!! お気を確かに!!!」
 程普が孫堅に声をかける。
「何をしている、早く医者を呼べ!!」
 韓当が周りのものに命じる。
 孫堅が倒れたということに周りは混乱し、進軍どころではなくなった。
「殿!! 殿!!!」
 黄蓋も自分の事を呼んでいるが、孫堅には彼らに何かを答えることは出来なかった。
『ここまでか……』
 孫堅は自然に、自らの最期を覚った。
 本当なら事細かにこれからのことを伝えてやりたかったが、それも無理そうだ……。
 ならば、自分は最期に何を言えばいいのか……。
「孫……策」
 死の間際だというのに、声には威厳を漂わせたまま、孫堅は息子の名を呼んだ。
 字ではなく、孫堅は孫策の名を呼んだ……息子を一人前の男と認めていたから。
「……」
 孫策は黙って孫堅の言葉を待っている。
 そう、あれこれと何も言わずとも
「孫策……後は、任せた……ぞ」
 ただ一言、そういえば自分の息子は分かってくれる。
 自分は息子達をそう育ててきたのだ。
「……あぁ、任せとけ」
 孫堅の思った通り、瞳に涙をためながらも、孫策は力強くうなずいた。
「……」
 そんな孫策へ、孫堅は何も言わず、何かを渡す。
「これは……玉璽」
 孫策の手に渡されたのは、洛陽で孫堅が手に入れた皇帝の証・玉璽だった。
「あぁ……確かに預かったぜ」
 孫策は玉璽をしっかりと握り締めた。
「……」
 それを見届けた孫堅は、自分の体から力が抜けていくのが分かった。
 今まで“死”というものを恐れて必死にそれに追いつかれまいと走り続けていたが、不思議と怖くはなかった。
 この世には人知れず死んでいく者もいるのだ、それに比べて自分はどうだろう。
 息子や臣下に見守られながら逝けるのだ……悔いがあるはずがない。
 孫堅は「任せた」と一言言ったきり、それ以上の言葉は一切口にしなかった。
 無念で仕方なかったであろうに、彼の死に顔はどこまでも安らかなものだった。

 総大将を失ったことにより、孫堅軍はやむなく荊州を退却、劉表はその命を拾うことになった。
 孫策は孫家の再興のため、ひとまず同盟関係にあった袁術を頼り、しばらく後に歴史の表に羽ばたくことになる。

 

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