〜董卓の死後〜

第2話「董白と呂華」


 呂布の館へひそかに馬を走らせてきた張済たちを、厳氏は静かに受け入れた。
 本来なら、董卓を殺した呂布の館に董卓軍の兵士が入ることなどありえないが、張済や厳氏たちにはそれ以上に優先するものがあった。
「董白様……」
 厳氏はうつろな瞳で屋敷の中に踏み入った董白を見て、どう声をかけてよいか分からなくなってしまう。
 どのような理由があれ、彼女の祖父を奪ったのは自分の夫・呂布なのだ。
 その事実がある限り、厳氏には董白にかける言葉はなかった。
「まだ外は混乱しています、とりあえず中に」
 今は董白の安全を確保することしか出来ない、そう考えた厳氏はそう言って屋敷の中へ董白を招きいれようとする。
「……」
 董白はやはり何も言わない。
 そんな董白へ、張済が声をかけた。
「ここならしばらくの間は安全です……しかし、董卓様が殺されたのです、李カクや郭が黙っているはずがありません」
「あの阿呆どもが何をしでかすか……」
賈クもそう呟いてため息をつく。
「私と賈クは今から李カク・郭のもとに赴いて馬鹿なことをしないよう何とか説得をして見ます」
「無駄だと思いますがね……」
「賈ク、そんなことは分かっておる、あくまで時間稼ぎだ……董白様、我々が時間を稼ぐ間にこちらへ必ず迎えを出します……その者に従って呂布殿のご家族とどうかお逃げください……」
「……」
董白は何も答えない。
「どうかご理解ください……董一族唯一の生き残りであるあなたが生きていることが李カクたちに知れたら、李カクたちは必ずあなたを利用することでしょう……どうかほとぼりが冷めるまで身を隠していただきたい」
「……分かり、ました」
董白はうつろな瞳で答えた、さもどうでもいいというような声色だった。
「……そうですか、それでは董白様……どうかご無事で」
張済も余計なことは言わず、その場を後にした。

「……」
「おい、小娘」
厳氏について呂布の館へ入ろうとした董白を、賈クが呼び止めた。
「持っていろ」
「?」
不意に賈クが、董白へ何かを投げてよこす。
「これ……は」
賈クから渡されたのは、一振りの短刀。
「護身用だ……せめてもの手向けにな、自由に使うがいい……ククク」
賈クは冷たい笑いを浮かべている。
「……」
 いくら周りが混乱しているとはいえ、今の董白に護身用の短刀など必要ない。
 
ならば……賈クは何故このようなものを……

「!!」
短刀の意味を覚った董白は、賈クの方へ目をやる。
「クククク……」
 そこにいたのは、限りなく邪悪な笑みを浮かべる闇の軍師。

 今から彼女が匿ってもらうのは、彼女の祖父の仇・呂布の館。
 そして彼は言った“自由に使え”と……。
 この状況でわざわざ短刀を渡す理由など、一つしかない。

「い……」
いりません……。
董白の口からは、どうしてもその一言が出てこなかった。
 そう、彼女の心の黒い部分が、どうしても短刀を手放さない……。
 
 それは、董白がどこかでこの刃を必要としていること。

「ククク……せいぜい生き延びて見せろ……“魔王の孫”」
短刀を受け取った董白を満足げに見据えると、賈クは董白から視線を逸らして屋敷の外へと消えていった。

「……何か、口に入れますか?」
「……」
厳氏の言葉に、董白は小さく首を振る。
「そうですか……」
厳氏は少し寂しそうな顔をして、ゆっくりと席を立つ。
「では、しばらくはこの間でゆっくりと休んでください。何かあれば何なりと……」
 厳氏はそれだけ言って部屋を後にする。
「……」
 一人部屋の中に残された董白は、ただ懐に手を当てていた。
 賈クから渡された短刀……。
 本当に自分が使うのか……。
 本当に自分に使えるのか……。
 考えれば考えるほど、自分の体が震える。

 そんな時だった。

 カタ……

「?」
 董白のいる部屋の扉がゆっくりと開く。
「は〜く?」
外から顔を覗かせたのは赤い瞳の少女。
「!!」
 ずっと会いたかったが、今は決して顔を合わせたくなかった少女。
「白!!」
 董白の胸のうちなど何も知らず、少女・呂華はいつもの調子で董白の胸に飛び込んできた。
「あ……」

 ポフン

 ついいつもの調子で、董白は呂華の体を受け止める。
 自分に何の警戒心もなく無邪気な笑顔を見せる少女。

いつもは董白の全てを癒す呂華の笑顔が、今はとても■■しい……

 今すぐ彼女を抱きしめたい……
 今すぐ彼女に笑いかけてあげたい……

 そして……

 今すぐ、仇の娘を■■たい……

「あぁ……」
 体の震えが一段と激しくなる。
「白〜?」
 呂華はいつものように自分に笑いかけてくれない董白を心配そうに見つめる。
「……ぁあ」
 呂華を抱く董白の手が、自然と懐に伸びる。

 ドクン

胸の鼓動が今までにないほど激しい。
『私は……何を考えているのですか?』
そう思いながらも手の動きは止まらない。
『……呂華は……仇の娘』
心の中の黒い部分が自分にそう語りかける。
『許せない……許してはいけない……』
 董白はゆっくりと呂華を抱き寄せる。
「白?」
呂華は何の抵抗もなく董白の胸に収まる。
 いつの間にか、董白の手には賈クから受け取った短刀が握られている。
 抱き寄せている呂華には短刀が見えていない。
『このまま……一思いに』
 体の震えが止まらない。
「白……寒い?」
「……」
 呂華が何か言っているが、董白にはそんなことを気にしている余裕などなかった。
『もう……何がどうなろうと、知らない』
 そうして董白が、短刀に力をこめたときだった。

「ごめん……なさい」

「!!」
董白の耳に、信じられない言葉が響いてきた。
言葉の主はもちろん、董白の胸の中にいる小さな少女。
「あ……」
「ごめん……なさい」
 自分のことをまっすぐに見つめながら、少女はもう一度呟いた。
『何を……言って』
董白の思考は完全に止まっていた。
『この娘は……何を、謝っているというのですか』
 董白には分からない。
『呂布がおじい様を殺したということを知っていた?』
 ありえない、董白は瞬時に否定する。
 彼女の母がそんなことをわざわざ娘に話すとも思えないし、館から外に出る機会の全くない呂華が他のものから話を聞くこともありえない。
 そもそも呂華は、董卓が死んだことすらわかっていないはず……。
『ならば……どうして』
 どうしてこの娘は……今にも泣きそうな顔で自分に謝るのか……。
「白……泣いてる」
「え……」
呂華に言われてはじめて気がついた、今自分の瞳から涙が流れているということに。
「私……なにか、した?」
 いたずらをしかられる子供のような表情で、呂華が続ける。
「わからないから……ごめん、なさい」
「っ!!!」

 カララン……

部屋に響く、澄んだ金属音。
 董白が手に持っていた短刀を落とした音。
「あ……ぁあ」
 董白は頭を抱えて、その場に崩れ落ちる。
『私は……何を』
 床に転がっている短刀を見ながら、董白は涙を流す。
『私が……この手で……呂華を……』
 ■■うとした……。
『何よりも大切だったものを……自分で』
 祖父を殺されたという怒りに取り付かれ……自分は
『タイセツナモノを……自分で失くそうとした』

「あ……」
「白?」
呂華はやはり、自分を心配そうに見守っている。
「あぁぁあ……」
自分を殺そうとしたものに、今でも……。
「私……ずっと、白といっしょ」
「!!」
「白は……嫌?」
こんなにも優しい瞳を向けてくれる。
「ああああああぁぁぁぁ……」
 心の中の、黒い何かが消えていく。
「呂華……」
涙はやはり止まらないが、董白は呂華をまっすぐ見つめる。
「私も……」
 そう、呂華といるときだけ、自分は本当の自分になれた。
 それはずっと前から分かっていたこと。
 ならば、“董一族”という縛りから解放された自分がするべきことはたった一つ……

 

 

「あなたと……ずっと一緒にいたい」
 どんな形でもかまわない、ただ……ずっと呂華のそばにいること。

「では、俺はこのあたりで」
賈クはそう言って、自らの主・張済に頭を下げる。
「あぁ、とりあえず李カクと郭の事は任せたぞ……私は別のところから手を回してみる」
「わかっています、ククククク……しばらくはお別れですね」
 賈クはそう言って、何の未練もないような乾いた笑いを漏らす。
 張済はそんな賈クを見て、同じような乾いた笑みを漏らす。
「このような混乱の中だ、もう会うこともないかも知れんな」
「ですね……ま、俺は死んだりしませんが」
 賈クのこの物言いも、張済にとっては別に不快なものではなかった。
「今にして思えば……お前のような優れた男が何故私の配下になっているのか、つくづく理解できん」
「お答えしましょうか?」
「いいや、お前は遠慮という言葉を全く知らんからな、聞かない事にしておこう」
「ククク……それが正解です」
賈クはそう言って張済に背を向ける。
「ただ、ひとつだけいっておくと……俺は“仕える価値がある”と判断した人間にしか仕えません」
「はは、それは光栄だ」
 張済も賈クへ背を向ける。
「また気が向いたら、私のところで働いてくれるか?」
「さぁ? どうでしょうね」
 そう言いあいながら、お互いに馬を進めていく。
「もし、私に何かあったときだが……」
「なんです?」
賈クが一度だけ振り向く。
「私の甥に“張繍”という若造がいるんだが……そいつを助けてやってはくれないか?」
 張済は振り向かずに、そんなことを呟いていた。
「その人が“仕える価値がある”人間ならば、考えておきましょう」
「それは保障しよう、その男は私などよりも遥かに優れた男だ……」
「ほぅ……それは楽しみだ……クククク」
 お互いの距離が少しずつ開いていく。
「それでは賈ク……達者でな」
「張済殿も……御武運を祈ります」
 最後にそれだけ言って、二人は別々の道を走っていった。

 

 

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