〜虎牢関の戦い・中編〜

第1話「恐怖の化身」

 

―ダダダダダダダダッ―

虎牢関を突破した曹操軍は、迷うことなく疾走を続けていた。
「進め!! 後ろのことなど考えるな!!」
夏侯惇が叫ぶ。
前へ、ただ前へ。
目標はすぐそこだ。誰もがそう思い勢いのまま前に進んだ。
 そのときだった。

「下らん……なんと下らん」
心底からその身全てを凍りつかせる呪いような声が響いた。

―ゾクッ―

「!!」
驚きは将のものか兵のものか、馬を駆り疾風のように駆けていた曹操軍は突然感じた「恐怖」にただ固まった。
「……」
何が起こったのかわからずにただ震える兵卒たち、それを冷静に見つめながら、曹操は遥か断崖の上に視線を移した。
「?」
曹操の視線に気付き、兵たちも恐る恐る断崖の上を見た。
「!!」
断崖の上を見た兵たちは時を止めた。“息を呑む”などという生易しいものではない。
 それこそ“たった今から自分たちは息をするものでは無い”という強烈な暗示がかかったかのように、完全にその呼吸を止めていた。
 “目を逸らしたい”誰もがそう思っているのに“ソレ”から視線を逸らすことができない。
兵たちは断崖の上に立ち並ぶ凶暴な“殺意”と、それらすべてを背負い、従える圧倒的な“恐怖”の姿を確認した。
「と……」
夏侯惇が小さく呟いた。彼の激烈なまでの気性を知る者が聞いたら思わず耳を疑うような小さな声で……。
そう、断崖の上から曹操軍を塵か屑でも見るような冷酷な瞳で眺めていたのは。
 今にも解き放たれんとしている“兵士(殺意)”とそれさえも押しとどめる圧倒的なまでの……
「……董卓」

“董卓(恐怖)”という名をした怪物だった。

 


「……」
最初に言葉を発したきり、董卓は黙って曹操軍を見下ろしている。その背後には彼の「殺せ」という命令を今か今かと待ちかねている董卓軍の兵士たちがいた。
 いや、ソレはもう“兵”ではなかった。
「ヒヒヒ……」
「ギャハハ……」
目の前に現れた哀れな“獲物”を狙う、人の姿をした“獣”だった……。
 殺意にギラつく凶悪なまでの視線に、曹操軍の兵たちは完全に戦意を失った。
「……」
曹操は険しい顔で董卓率いる兵たちを眺めていたが……。
「フ……」
急に乾いた笑いを漏らし、額へ手を当てる。
「……」
董卓はやはり何も言わず、曹操を眺めている。

―サラッ―

その視線に全く臆することなく、曹操はこれ以上ないというくらい様になる動きで前髪を掻き揚げ
「やぁ董卓君……相変わらずの悪人面だね」
余裕の笑みを浮かべながら董卓へ声をかけた。


「……貴様も相変わらずの狐ぶりだな」
董卓が言葉を返した。
「狐? 何を言うのかね董卓君……前にも言っただろう」
曹操はさも心外といった様子で再び前髪を掻き揚げて
「私はこの乱世の“覇者”だと……」
ただそう言った。
 覇者“になる物”ではない。曹操はすでに自分がこの乱世の“覇者”だといったのだ。
これに戦慄したのは他でもない董卓の従える兵士たちだった。
『まさか董相国の前でこのようなことを言えるものがいるとは』
董卓軍の皆がそう思い、誰もが曹操の“死”を確信した。
「まだそんな世迷い言を繰り返していたのか……哀れだな」
「いずれ分かるときがくるよ、もっともそのときまで君が生きていたらの話だがね」
 曹操はそれでも立て続けに董卓を挑発する。
董卓は心底失望した面持ちで瞳を閉じる。董卓軍の兵たちも曹操の愚かさを影で笑っている。


『……違う』
曹操の後ろに、夏侯惇と対になる形で控えていた男・夏侯淵(字は妙才)は一人そう予想した。

−自分や夏侯惇が生涯をかけて覇道を進むと誓ったこの男はそんな馬鹿(正確にはいろいろな意味でバカだが)な男では無い−

と。
 曹操は無駄に董卓を挑発して彼の怒りを買ったのではない。
『すべては……』
ただ董卓と“会話”をするため。
 夏侯淵はそう読んでいた。
『董卓を人外の“怪物”と恐れて、完全に戦意を失っていた兵たちに“あくまで董卓は「人」にすぎない”ということを理解させるため……』
夏侯淵があたりを見渡すと、やはり、自分たちと同じ言葉を口にする董卓に、兵士たちが少しずつ冷静な視線を取り戻していく。
 夏侯淵が曹操のほうへ目をやると
「あ……」
曹操はそんな兵士たちの様子を眺め満足そうに不敵な笑みを浮かべていた。
 そのとき夏侯淵の予想は確信という形にその姿を変えた。
同時に彼の口元にも笑みが生まれた。
『天下の暴君・董卓を前に笑いが漏れるとは……』
夏侯淵はそうして再び兵たちを見た。

すでに、董卓を“恐怖”とみなすものなど曹操軍の中には存在しなかった。


「……」
 董卓は閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
彼もまた曹操軍の異変に気付いていた。
 先ほどまで圧倒的な“恐怖”に完全に戦意を失っていた曹操軍が、今では戦のときを今か今かと待ちかねている。
「ふん……」
董卓は素直に感心した。

―俺の下で働けば、一生を約束されただろうに―

もちろん口になど出さず、董卓はただ決心した。

―邪魔だ……現世から消してやる―

 董卓の動きにただ身構えていた曹操軍だが
「?」
相手側の大将・董卓は何を思ったのか、再び瞳を閉じた。
 そればかりでなく、ゆっくりと馬を下げ、腕を組んだまま黙りこくってしまった。
『戦う気がないのか?』
曹操軍の兵士たちは誰もがそう思った。
 しかし

―        ―

次の瞬間、獣の檻は解かれていた。


―ガガガガガガガガガガッ―

断崖を平地のごとく、董卓軍の兵士たちは曹操軍へ襲い掛かる。
「な!!」
曹操軍の兵士たちはただ戸惑った。
 董卓は今、戦の開戦に必要な“号令”という行為を一切行っていない。
『兵士たちを御しきれていなかったのか?!』
と軽く考えることなど、とてもではないが出来なかった。

「ハハハハッ!!」
「死ねぇ!!!!」

―ドドドドドドドドドドドッ!!!―

それほどまでに董卓軍の兵士たちの動きには無駄がなく、見事に統率されていた。

「怯むな!! 迎え撃て!!」
兵士たちの戸惑いの全てを、曹操の凛とした号令が拭い去った。
「応ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!」
我を取り戻した曹操軍は一気に攻め寄せてくる董卓軍にぶつかった。

―ガキン―
―ズシャ―
―バキッ―
―ドスッ―

ただ“殺しあう”という行為に没頭する両軍の兵士。
 勇猛さや純粋な武力などで、曹操軍は董卓軍の足元にも及ばない。
だが曹操軍にはその兵の差を全くの「無」どころか、完全に「逆転」させる存在がいた。
「ハァァァアッ!!!!」

―ズシャァァァァ!!!!!―

夏侯惇の振るう豪槍が、遥か西涼の地で鍛え上げられた獰猛な董卓軍を一薙ぎにする。
「シャッ!!」

―ヒョゥ!!!!―

夏侯淵の放つ豪矢が、生半可な攻撃をものともしない董卓軍を確実に仕留め撃ち落とす。
 曹操の両脇に控えていた夏侯兄弟は、今その武の翼を大きく広げていた。

 戦は夏侯兄弟の活躍で完全に曹操軍が優勢だった。
「今だ!! 董卓軍を突き崩せ!!」
曹操が再び号令をかける。
未だに沈黙したまま自軍へ号令の一つもかけようとしない董卓を視界の端に収めつつ、曹操軍は敵を一気に殲滅にかかった。
そのときだった。

―ガクン!!―

「!!」
董卓軍がまたも号令なしで、完璧な動きで曹操軍の攻撃を迎撃した。
 曹操が咄嗟の判断で次の号令をしても、董卓軍は変幻自在の動きで正確に曹操軍の攻撃に対応している。
 曹操軍は戸惑いを隠せない。
未だ断崖の上で腕を組んでいる董卓、やはり指一本動いていない。
『これが……“魔王の用兵”だというのか!!』
董卓軍のあまりにも奇怪な動きが、曹操軍の兵士たちの心に再び“恐怖”を呼び起こしつつあった。


 相手の号令を聞けば、それに対処する手段は曹操ほどの人物であればいくらでも思い浮かべることが出来る。
 しかし、この董卓軍にはその“号令”というものが存在しない。
それだけならまだしも、何か合図になるような身振りも手振りもない。
 董卓はただ黙っている。
それなのに兵士の動きに無駄はなく、曹操軍の動きに合わせて見事に対応をしている。
 こちらの手の内は全てばれているのに、相手の手の内は全く明かされていない。
『戦とは常に移り変わるもの……あらかじめ示し合わせることには無理がある』
状況の把握に戸惑いながらも槍を振るう手は止めず、夏侯惇は考える。
『どうなっているんだ!!』
襲い掛かってくる全ての敵を薙ぎ倒し、夏侯惇は曹操のもとへ下がる。


「おい孟徳!!」
夏侯惇は怒鳴り声を上げながら曹操のもとへ駆けていく。
 曹操は少しもあわてたようなそぶりなど見せず、にこりと笑って夏侯惇を迎えた。
「おや? どうしたのかね」
「ふざけるな!! これは……」
「先に言っておくが“これはどうなっているんだ?”などと聞かないでくれよ? 私は君にあまり失望したくないんだ」
「うぐ!!」
曹操に言われて夏侯惇は開きかけた口を閉じる。
「惇……董卓軍は一体どうやってこんなことをしているのだろうね?」
逆に問われた。
「う……ぐぐ」
 この口ぶり、曹操はすでに相手の用兵を完全に見抜いている。しかしいつもの余裕を見せてくだらない問答を続けようとする。
夏侯惇は苦し紛れに怒鳴った。
「ん、んなこと知るかぁ!! 大体貴様には分かっているんだろうバカ孟徳!!」
夏侯惇の怒鳴り声を聞いて、曹操はやれやれといいながら口を開いた。
「まったく……この偉大な私に向かって“バカ”などという低俗な言葉をよくぞ口に出来たものだね……いくら偉大な私でも傷つくよ?」
「バカも休み休み言え!! その態度のどこが傷ついている?!」
夏侯惇が今にも曹操へつかみかかろうとしたのをとめたのは夏侯淵だった。
「惇兄さんに悪気は無いんです……ただ戦になると極端に周りが見えなくなる“戦バカ”というだけで……」
「お前何が言いたいんだぁ!!」
今度は夏侯淵へつかみかかろうとする夏侯惇を無視し、曹操は夏侯淵へ聞く。
「淵はわかるのかね?」
夏侯淵はわずかに思案したあと
「完全には分かりませんが……」
「うん、聞こう」
「……では」
といいながら自らの考えを語りだした。


「私が思うに、董卓は本当に何もしていないのではないのでしょうか?」
夏侯淵は静かに口を開いた。
 夏侯兄弟が戦場から下がったため、曹操軍は次第に劣勢になっている。
「何? どういうことだおい……」
「分からないのなら少し黙りたまえ惇」
「うぐ」
口を開く夏侯惇を曹操は一蹴した。
「続きを聞こうか」
「はい……」
夏侯淵もそれをあまり気にすることなく続ける。
「董卓はこちらを惑わすためだけのもので、実際この戦の指揮はまったく別の者が取っているのではないのでしょうか? この、こちらの動きに合わせた“狡猾”な用兵は董卓の得意とするものでは無いような気がしてならないのです」
それを聞いた曹操は満足そうにうなずく。
「さすがだよ淵、そこまでで70点だ」
「はっ! 70点では誇る点数でもあるまい!!」
「うるさいね惇……言っておくがさっきの君は7点だよ?」
「ぬぅっ!」
曹操は再び夏侯惇を黙らせる。点数が下手に0点でないのがかえって現実味を帯びていて嫌だった。
夏侯惇を黙らせると曹操は再び問うた。
「では夏侯淵……この指揮を取るものが誰なのかはわかるかね?」
「いえ……」
夏侯淵はゆっくりと首を振る。
「怪しい……と思うものはいるのですが、おそらくは違います」
「怪しい……と思うものとは?」
曹操にさらに問われ、夏侯淵は董卓が控えているところからさらに遠い断崖を指差した。
 そこには弓を得意とする夏侯淵だからこそ気付くことができた、かろうじて見える人影があった。


「ほぅ……俺に気付いたか」
遥か遠くの断崖から曹操たちの様子を伺っていたのは、一人の男だった。
 董卓軍の軍師・賈ク(字は文和)
未だ表立った活躍はしていないが「闇の軍師」の名で味方からも恐れられている、曲者ぞろいの董卓幕下においても一際異質の男。
賈クは見つかったというのに全く慌てる様子もなく、口元に不敵な笑みを浮かべ、見るもの全てから体温を奪いつくすような氷の眼差しを曹操に向けている。
 周りの夏侯兄弟や兵士たちなど賈クの目には映っていない。
今彼の目には、ただ曹操だけが映っている。
 曹操も遠く離れた賈クをじっと見ている。
「ククク……曹操、噂には聞いていたが」
ゆっくりと前髪を掻き揚げながら呟く。
「今はたいした事は無い……軍を率いるものとしても武を振るうものとしても董卓様にはわずかにおよばぬ……ククク」
賈クは押し殺せない笑いを漏らし続ける。
 今の賈クの言葉は決して曹操を侮って口から出たのではない。
『今は』たいしたことは無い……これは逆を言うと時間を経ると全くの別物に化けるということ……。
『わずかに』及ばぬ……董卓と曹操の年の差はずいぶんある、それなのにその差は『わずか』だという、つまりはいずれ逆転するということ……。

この言葉は、賈クから曹操へ贈られたこの上ない賛辞の言葉だった。

 

 

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